現代のお坊さんはどの宗派の人も結婚できますが、これが広まったのは明治時代以降のことであり、それ以前の僧は浄土真宗を除いて戒律を守っていましたから、当時の親鸞の特異性がうかがえます。
この他にも、親鸞は自分の煩悩(ぼんのう、身心を悩ませ苦しめる心の作用のこと)の深さを知っている人間(=悪人)こそが、自らが阿弥陀仏による救いの対象となることを知ることができるとする「悪人正機(あくにんしょうき)」を説きました。
親鸞は越後への流罪の後も関東地方で30年以上留まって布教を続ける一方で「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」という著書を残しました。親鸞の没後に弟子の唯円(ゆいえん)がまとめたとされる「歎異抄(たんにしょう)」も有名ですね。ちなみに、浄土真宗の総本山は京都で東西に分かれた本願寺(ほんがんじ)です。
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法然は「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」という著書を残しています。また、浄土宗の総本山(そうほんざん、中心となる寺院のこと)は京都の知恩院(ちおんいん)です。
法然が流された頃に、彼の弟子として同じく越後(えちご、現在の新潟県)に流されたのが親鸞(しんらん)でした。貴族の出身である親鸞は天台宗の僧となって比叡山延暦寺で修行を積みましたが、やがて自力での修行に限界を感じると山を下りました。
下山後に法然と出会った親鸞は、彼の弟子として研鑽(けんさん)を積む間に師の教えをさらに徹底させて、阿弥陀仏(あみだぶつ)の存在を信じて心に念ずるだけで(つまり、念仏を言葉で唱えることにこだわらない)極楽往生できるとしました。阿弥陀如来(あみだにょらい)の救いを信じる心を強調した彼の教えは「浄土真宗(じょうどしんしゅう、別名を一向宗=いっこうしゅう)」と呼ばれています。
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これらの現象が、平安中期より広まり始めた「末法(まっぽう)思想」そのものであると人々に強く信じられたことで、救いを求める人々の期待に応えるかのように新しい仏教が鎌倉時代に相次いで生まれ、広く信仰を集めました。
いわゆる「鎌倉仏教」とも呼ばれる新しい仏教は、それまでの加持祈祷(かじきとう)や学問とは異なり、内面的なものを重視しながら武士や庶民(しょみん)などの幅広い階層を中心に広まったのが大きな特徴でもありました。
美作(みまさか、現在の岡山県北東部)の武士の家に生まれた法然(ほうねん)は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で天台宗(てんだいしゅう)を学んだ後に下山(げざん)すると、一心に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱えれば誰でも極楽往生(ごくらくおうじょう)への道が開かれるとする「専修(せんじゅ)念仏」の教えを説(と)きました。いわゆる「浄土宗(じょうどしゅう)」のことです。
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なお、これらの文化はいずれも漁労(ぎょろう)あるいは狩猟に基礎を置く文化です。
これらの文化を経て、13世紀にはアイヌの文化が生まれるようになりました。アイヌの人々は津軽(つがる、現在の青森県西部)の十三湊(とさみなと、現在の青森県五所川原市)を根拠地として、得宗の支配を受けていた安藤(あんどう)氏(別名を安東氏)と交易していました。
ちなみに、樺太(からふと)に住んでいたアイヌの人々はモンゴルと交戦した記録が残っているそうです。モンゴルの影響が日本列島に広く及んでいたことがよく分かりますね。
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その後、琉球は山北(さんほく、別名を北山=ほくざん)・中山(ちゅうざん)・山南(さんなん、別名を南山=なんざん)の三つの勢力に統合されていきました。
12世紀頃から、琉球ではそれまでの貝塚文化を経て農耕生活が始まり、グスクが形成されていきました。いわゆる「グスク時代」の始まりです。
なお、按司は農耕社会が成立したグスク時代の琉球諸島や奄美群島の各地に現れ、当初は集落や聖地からなっていたグスクも、彼らの成長とともに石垣による立派な城が建築されるようになっていきました。
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しかし、幕府によって一度痛い目にあっている借上たちは、余程(よほど)のことがない限り今までどおりにお金を貸してはくれません。永仁の徳政令は、結果として御家人たちの経済活動をかえって阻害(そがい)するという結果をもたらしてしまったのです。
なお、御家人の窮乏化(きゅうぼうか)の原因に分割相続があったことで、鎌倉時代の後期までには惣領が所領のすべてを相続するという「単独相続」が一般的になり、庶子は惣領によって扶養(ふよう、養ってもらうこと)されるようになりました。
また、畿内やその周辺を中心として、武力に訴えて年貢の納入を拒否するなど、荘園領主や幕府に対抗する武士団が多く見られるようになりました。彼らは「悪党(あくとう)」と呼ばれ、その勢力はやがて各地に拡大して、得宗専制政治を強化した幕府を次第に悩ませるようになりました。
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それまでの借金がなくなったり、所領が元に戻ったりしたことで、御家人たちはようやく一息つくことができましたが、皮肉なことに、この徳政令が御家人たちをますます追い込んでいくことになりました。なぜそうなったでしょうか。
借上たちの立場で考えてみましょう。彼らは御家人たちから利息を集めることや、借金が払えなければ土地を取り上げて、それを基本にさらに商売を拡大することで生計を立てています。
それなのに、徳政令が出されたことによって、借金を返してもらえないうえに、正当な取引によって所有した土地を強制的に奪われるという散々な目にあってしまいました。
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幕府への義務を果たす「奉公」は出費がかさむため、やがて御家人の多くが先述のとおり借上などの業者から借金をし始めましたが、借金を返済できなくなった御家人の中には、担保として自らの所領を奪われてしまう者も現われるようになりました。そして、元寇による負担がこうした流れに拍車をかけてしまったのです。
通常の場合、御家人は負担した軍役の結果、滅亡した相手方の所領から褒美(ほうび)がもらえることで、それなりの収入を得ることができました。しかし、海を渡ってやって来た元軍が日本国内の所領を持っているわけがありません。
従って、九州まで自己負担で遠征して命がけで戦ったにもかかわらず、褒美でもらえる所領がないという、御家人たちにとっては極めて深刻な事態となってしまいました。
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元寇の後、北条時宗が弘安7(1284)年に34歳の若さで亡くなると、時宗の子の北条貞時(ほうじょうさだとき)が13歳で9代執権となりましたが、御内人の代表である内管領(うちかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)が、弘安8(1285)年に貞時の外祖父(がいそふ、母方の父のこと)である有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)を滅ぼしました。
この事件は、旧暦11月の霜月(しもつき)に起きたことから「霜月騒動」と呼ばれています。騒動の後は平頼綱が政治の実権を握りましたが、成長した貞時によって正応(しょうおう)6(1293)年に頼綱が滅ぼされると、以後は得宗が絶対的な権力を手に入れるようになり、御内人や北条氏一門が幕政を独占する「得宗専制政治」がますます強まっていきました。
このように幕府内の権力争いが激しくなる一方で、一般御家人の生活状況は元寇をきっかけにより一層悪化しました。なぜ元寇が御家人の生活の足を引っ張ることになってしまったのでしょうか。
その原因は、鎌倉幕府を支えていた「御恩と奉公」のシステムの崩壊(ほうかい)にありました。
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一方、元の来襲という国難に際して、特に弘安の役の折に暴風雨が発生したことで「我が国は神風に守られている」とする「神国(しんこく)思想」がこの後に主流となっていきました。この思想は、やがて我が国に対して大きな影響をもたらすことになります。
さて、あきらめきれないフビライは我が国に対して三度目の来襲を計画しましたが、諸般の事情で中止となり、元はその後二度と我が国を攻めることができませんでした。一方、我が国は九州沿岸の警戒体制をゆるめず、元寇を機会に幕府の影響力を西国にも広めました。永仁(えいにん)元(1293)年には「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」を設けて、北条氏一門を派遣して九州の御家人を統括(とうかつ、別々になっているものを一つにまとめること)しました。
また幕府は、それまでは支配の外にあった国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)や荘園の非御家人の武士を動員できる権利を朝廷から与えられるなど、元寇は結果として幕府の支配を強化するという効果も生み出しました。
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