林内閣のもとで昭和12(1937)年度予算が例年どおり審議されましたが、成立直後の3月31日に林が突然衆議院を解散しました。内閣にとって予算成立という「ご馳走(ちそう)」を賞味した直後の解散劇だったことから「食い逃げ解散」と呼ばれましたが、翌月に行われた総選挙の結果は林内閣にとって芳(かんば)しいものではなく、政党からの退陣要求が日増しに強くなりました。
結局、林内閣は同年6月に総辞職し、成立してからわずか4か月余りで退陣を余儀なくされました。任期が短く大した実績を残せなかったことから、後には林自身の名をもじって「何もせんじゅうろう内閣」と皮肉られています。
さて、林内閣の後には当時の貴族院議長が内閣総理大臣を務めることになりましたが、かつての五摂家の筆頭という家柄で、しかも本人自身は皇室の血を引く人物として、元老(げんろう)や軍部のみならず一般民衆まで国民各層の大きな期待を集めていました。
彼こそが近衛文麿(このえふみまろ)だったのです。
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