天皇機関説は憲法学説の一つとして我が国で受けいれられてきましたが、先述のとおり昭和10(1935)年2月に開かれた帝国議会における貴族院の本会議において、軍出身の菊池武夫(きくちたけお)議員が「天皇機関説は国体(=国家としての体制のこと)に反するものである」と非難したことから大きな問題となりました。いわゆる「天皇機関説問題」(または「天皇機関説事件」)です。
当時は天皇を中心とする国家社会主義が軍部を中心に広がりを見せており、天皇を絶対視するあまり、天皇機関説が統治権の主体を国家とみなしていることが「不敬」であるとされてしまったのです。
貴族院や衆議院は同年3月に天皇機関説を排する決議を採択したほか、当時の岡田啓介(おかだけいすけ)内閣も世論の圧力に屈して「国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)」を出したことによって、昭和天皇も当然のものであると思われていた天皇機関説は国家によって完全に否定されてしまいました。なお、美濃部達吉は事件を受けて貴族院議員を辞職しています。
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