昭和7(1932)年に社会民衆党を脱党した赤松克麿(あかまつかつまろ)は日本国家社会党を結成し、資本主義体制の打破と国際的な領土再分割を綱領に掲(かか)げました。なお、同年には他の無産政党が大合同を行って社会大衆党を結成しています。
昭和8(1933)年には治安維持法違反などで獄中にあった日本共産党の最高幹部の佐野学(さのまなぶ)や鍋山貞親(なべやまさだちか)が転向声明書を発表して、ソ連のコミンテルンが日本共産党に指示した「君主制の廃止」が日本の現実にそぐわないことから、共産党の組織が大衆から離れてしまったことを厳しく批判しました。また、佐野らが天皇を民族的統一の中心とした独自の「一国社会主義」を提起したことから、獄中の大半の党員が同じように転向するなど、その影響は大きいものがありました。
なお、佐野らのように転向したのも、あるいは非転向を貫いて第二次世界大戦後に釈放された人物が存在したのも、いずれも治安維持法で「最高刑が死刑」とされていながら、実際には一人も死刑に処されなかったからという事実があることを忘れてはいけません。
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