乱の後、後鳥羽上皇と子の土御門(つちみかど)上皇並びに順徳(じゅんとく)上皇は、北条氏によってそれぞれ隠岐(おき、現在の島根県隠岐郡)、土佐(とさ、現在の高知県)、佐渡(さど、現在の新潟県佐渡市)へと流されました。上皇(天皇)が武士によって処罰を受けるのは初めてのことであり、朝廷は大きな衝撃(しょうげき)を受けました。また順徳上皇の子で当時4歳の仲恭(ちゅうきょう)天皇がご即位後わずか78日で退位させられ、新たに後堀河(ごほりかわ)天皇が即位されました。
ちなみに、在位期間の短かった仲恭天皇はご即位が認められず、長らく「九条廃帝(くじょうはいてい)」と呼ばれました。仲恭天皇と追号(ついごう)されたのは明治になってからのことです。
また、後堀河天皇はご即位時に10歳と若かったため、父で出家されていた行助法親王(ぎょうじょほうしんのう)が還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)されて上皇となられ、院政を行われましたが、天皇ご即位の経験のない上皇は前代未聞のことでした。なお、上皇は崩御後に「後高倉院(ごたかくらいん)」と追号されています。
幕府は、乱後の京都に六波羅探題を置き、朝廷を監視するとともに西国の御家人の裁判や軍事などの統轄にあたらせる一方、上皇の味方をした公家や武士の所領の3,000余か所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命しました。
なお、乱後の地頭は新たな給分(きゅうぶん、給付される領地や米、銭などのこと)を定めた新補率法(しんぽりっぽう)に基づく「新補(しんぽ)地頭」と呼ばれ、従来の地頭は「本補(ほんぽ)地頭」と呼ばれました。これらによって、従来は東国が中心だった幕府の勢力範囲は畿内(きない)や西国にも及び、また朝廷では以後も引き続き院政が行われたものの、幕府が朝廷よりも優位に立つことで、皇位の継承や朝廷の政治にも関わるようになりました。
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