しかし、建保(けんぽう)7(1219)年旧暦1月に、実朝は鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で頼家の遺児であった僧の公暁(くぎょう)に殺されてしまいました。この直後に公暁も殺されたことによって、頼朝以来の源氏の血はついに絶えてしまったのです。
ちなみに実朝を暗殺したとされる公暁ですが、暗殺の現場で「我こそは公暁なり」と叫んだという記録が残っているだけで、その後にすぐ討ち取られていることから、本物の公暁だったかどうかという確証がありません。実朝が殺されて誰が一番得をしたことになるのでしょうか。
さて、源氏の血統が途絶えたとはいえ、将軍が空位のままではさすがにまずいので、北条氏は京都から皇族を将軍に迎えようとして朝廷と交渉しました。しかし、実朝の暗殺でご自身のお考えが果たされなくなった後鳥羽上皇は許可されることなく、代わりに頼朝の遠縁(とおえん)にあたる、わずか2歳の藤原頼経(ふじわらのよりつね)を将軍の後継として迎えました。なお、こうした藤原氏からの将軍のことを「摂家(せっけ)将軍」または「藤原将軍」といいます。
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