また、自分の没後も源氏が将軍として政治を行うための「後ろ盾(だて)」が欲しいとも考えていました。政権を握るまでは夢中で走ってきた頼朝もやはり人の親であり、また自己の家系の繁栄(はんえい)を望んでいたのです。
建久6(1195)年、頼朝は東大寺の再建供養に出席した際に京都へ向かい、娘を後鳥羽天皇の妃(きさき)にしようとしました。頼朝にしてみれば、自分が朝廷の縁続きとなることで後ろめたさを解消するとともに、もし娘に皇子が生まれて将来天皇に即位することがあれば、源氏政権の強力な後ろ盾になると考えたのですが、これは絶対にやってはいけない「禁じ手」でした。
「自分の娘を天皇の妃とし、生まれた皇子が天皇に即位した後に自分が外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となる」。この流れはかつての平氏政権と全く同じであり、源氏が貴族化すると同時に、せっかく武士が手に入れた政治の実権を再び朝廷に奪われる危険性が高くなると思われても仕方がありません。
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