昭和8(1933)年の帝国議会において、京都帝国大学法学部教授の滝川幸辰(たきがわゆきとき)が著した「刑法読本」や「刑法講義」が国家を破壊する著作であるとして問題とされました。これを「滝川事件」といいます。
滝川教授の著作が問題にされた背景には、前年の昭和7(1932)年に中央大学で講演した「復活に現われたるトルストイの刑罰思想」における内容が「国家が刑罰を加えるのは不当である」とみなされ、国家の否認につながるものであると非難されたというのがありました。
当時の斎藤実(さいとうまこと)内閣の文部大臣であった鳩山一郎(はとやまいちろう)は「刑法読本」や「刑法講義」を発禁処分としたほか、京大に滝川教授の退官を要求しましたが、京大法学部教授会が「大学の自治への介入」として拒否したため、政府は文官分限令を発動して滝川教授を休職処分としました。
なお、滝川教授は休職処分後に京大を退官しましたが、第二次世界大戦後に復帰して後に京大総長を務めました。また、京大に一連の処分を迫った鳩山一郎は戦後に内閣総理大臣を務めたほか、彼の孫にあたる鳩山由紀夫(はとやまゆきお)も同様に首相となった経験があります。
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マルクス主義が次第に退潮していく中で、保田與重郎(やすだよじゅうろう)が主宰(しゅさい)した日本浪曼(ろうまん)派では、日本の近代化の諸現象を否定的に評価する反近代主義の立場から日本民族のもつ伝統美やアジア主義に注目し、民族的美意識を追求した「日本への回帰」という傾向を代表するようになりました。
また、昭和9(1934)年に陸軍省によって発行された「国防の本義と其(その)強化の提唱(=陸軍パンフレット)」では社会主義につながる統制経済など国防優先の国会改造が提唱されましたが、政党政治家が反対を唱える一方で、国家社会主義を標榜(ひょうぼう、主義や主張などをはっきりと示すこと)した赤松克麿や社会大衆党らはこれを支持しました。
こうした陸軍パンフレットをめぐる動きをきっかけとして、陸軍が政治への介入をより深め、批判した勢力に対する取り締まりを強化するようになるのですが、その批判した人物のひとりに先述した美濃部達吉(みのべたつきち)がいました。
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昭和7(1932)年に社会民衆党を脱党した赤松克麿(あかまつかつまろ)は日本国家社会党を結成し、資本主義体制の打破と国際的な領土再分割を綱領に掲(かか)げました。なお、同年には他の無産政党が大合同を行って社会大衆党を結成しています。
昭和8(1933)年には治安維持法違反などで獄中にあった日本共産党の最高幹部の佐野学(さのまなぶ)や鍋山貞親(なべやまさだちか)が転向声明書を発表して、ソ連のコミンテルンが日本共産党に指示した「君主制の廃止」が日本の現実にそぐわないことから、共産党の組織が大衆から離れてしまったことを厳しく批判しました。また、佐野らが天皇を民族的統一の中心とした独自の「一国社会主義」を提起したことから、獄中の大半の党員が同じように転向するなど、その影響は大きいものがありました。
なお、佐野らのように転向したのも、あるいは非転向を貫いて第二次世界大戦後に釈放された人物が存在したのも、いずれも治安維持法で「最高刑が死刑」とされていながら、実際には一人も死刑に処されなかったからという事実があることを忘れてはいけません。
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極端な言い方をすれば、皇道派が自己の理想を現実のものとするために「天皇を中心とした国家社会主義体制をつくる」→「それを邪魔する政治家や官僚は国賊である」という、ある意味一方的な考えに走ったことで事件が起きたとも判断できるのです。
しかし、皇道派の青年将校たちには国賊に思えた政治家や官僚は、同時に「昭和天皇にとってかけがえのない股肱(ここう)の臣」でもありました。また、当時は岡田首相も暗殺されたと思われており、内閣不在の異常事態であったからこそ、クーデターに激怒された昭和天皇が立憲君主制の原則を破られて、お自ら事件の鎮圧に乗り出されたのです。
二・二六事件を起こした青年将校たちへの同情論が多いのも理解できなくはないですが、股肱の臣を一度に失われた昭和天皇のお怒りやお悲しみも私たちは同時に考えなければならないでしょう。
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二・二六事件によって岡田内閣は総辞職し、かわって広田弘毅(ひろたこうき)が首相となって新たな内閣を組織しました。挙国一致内閣として成立した広田内閣でしたが、陸軍の主導権を握った統制派の影響は避けられず、その目標に経済の国家統制強化をめざした「広義国防国家」を掲げました。
また、陸軍の強い要求を受けた広田内閣が廃止されていた「軍部大臣現役武官制」を復活させたため、軍部の政治に対する影響力をさらに強めることになってしまいましたが、このことが大東亜戦争後に開かれた極東国際軍事裁判(=東京裁判)において、文官でただ一人A級戦犯にされて死刑となった理由の一つではないかといわれています。
さて、二・二六事件に関しては反乱軍とされた青年将校たちへの同情心が現代においても深いものがあるようですが、事件の本質そのものは、金融恐慌や昭和恐慌の影響によって貧富の差が拡大したことで、「貧しい者が富める者の存在を憎む」という共産主義思想が「天皇を中心とする社会主義」である国家社会主義思想へと姿を変え、その流れをくむ皇道派が起こしたクーデターでもありました。
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前代未聞の大事件を受け、将校たちに同情する姿勢を見せた陸軍首脳部は、彼らの意図を認めるか否(いな)かで動揺(どうよう)しましたが、ご自身にとってかけがえのない「股肱(ここう、最も頼りになるという意味)の臣」を失われた昭和天皇は激怒され、当時は岡田首相が死亡したと伝えられたことで内閣不在の緊急事態ということもあり、自らのご意思で事件の解決に乗り出されました。
二・二六事件は昭和天皇の強いご指示による勅令(ちょくれい、天皇による命令のこと)が出され、決起した将校たちは反乱軍となり、東京に戒厳令(かいげんれい)が出された後に事態は収拾へと向かいました。
その後、事件に関係した軍人や民間人の多くが検挙され、死刑を含む厳しい処分が行われましたが、処刑された中には「日本改造法案大綱」を著して軍人のクーデターによる国家社会主義の実現をめざした民間人の北一輝(きたいっき)もいました。
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これを岡田内閣打倒の好機と見た政友会が昭和11(1936)年1月に内閣不信任案を帝国議会に提出したのに対し、岡田内閣は衆議院を解散して総選挙に打って出ましたが、同年2月20日に行われた投票結果は政権与党である立憲民政党の勝利に終わり、政友会は惨敗しました。
与党の躍進(やくしん)という結果を受け、岡田内閣の政権基盤は安定化すると思われましたが、選挙結果に衝撃を受けた皇道派による「直接行動」によって、選挙からわずか6日後に我が国史上稀(まれ)に見る惨劇が起きてしまうのです。
昭和11(1936)年2月26日未明、皇道派の一部青年将校が「昭和維新」を目標として第一師団などの兵約1,400名を率いて決起し、首相の岡田啓介や大蔵大臣で元首相の高橋是清、内大臣で同じく元首相の斎藤実(さいとうまこと)、侍従長(じじゅうちょう、天皇・皇后の側近として仕える侍従の長官)の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)らを襲撃しました。
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「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合がございますのでご留意ください。
①会場入り口に備え付けてある『消毒用アルコール』で手指を消毒してください。
②受講中は『マスク』着用を必須とします。
③『咳エチケット』をお守りください。
④風邪症状がある場合等は受講を慎重にご判断ください。咳・発熱などの一般的な風邪症状がある場合には、受講をお控えいただくようお願いいたします。
オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりますのでご参照ください。また、準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは3日前(11月11日)の正午(午後0時)まで、対面式のライブ講習会のお申し込みは前日(11月13日)の正午(午後0時)までとなりますのでご注意ください。
黒田裕樹の東京歴史塾「昭和時代・戦中 その1」
今回から2回にわたってお送りする「昭和時代・戦中」。1回目は「真珠湾攻撃に秘められた真実」「大東亜戦争の始まり」「戦局の暗転」「戦時下の国民生活」の4つを中心に、大東亜戦争の緒戦の躍進とその後の暗転などについて黒田節が明らかにします。ご期待ください!
主催:株式会社スペック
日時:令和3年11月14日(日) 午後7時30分~午後9時30分
会場:クリエイト紀尾井町6階セミナールーム
参加費:金3,000円(税込)
※オンライン式講習会のお申し込みにおいて、レジュメを事前に郵送でご希望の場合は金3,500円(税込)になります。
オンライン式講習会のお申し込み締め切り:11月11日の正午(午後0時)まで
対面式のライブ講習会のお申し込み締め切り:11月13日の正午(午後0時)まで
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①まずはこちらのURLから「お申し込み」をクリックしてください。
https://rekishidojo.com/
②講座申込フォームに必要事項を記載のうえ、送信してください。折り返し、ご指定のメールアドレスに事務局からの案内メールが届きますので、それをご参照のうえ、24時間以内にPayPalまたは銀行振込で参加費をお支払いください。
③講座当日に使用するレジュメは、ご入金確認後にレジュメデータ(PDF)をメールにてお送りさせていただきます。なお、ご入金の確認が取れない方につきましては、キャンセル扱いとなりますのでご注意ください。
<当日ご準備いただくもの>
①カメラ&マイク機能搭載のパソコン
※スマートフォンのアプリからもご使用いただけますが、画質・音質に不具合が生じる可能性があります。スマートフォン以外のパソコンを使用されることを推奨いたします。
②歴史講座レジュメ
※レジュメにつきましては、ご入金後にメールにてレジュメデータ(PDF)をお送りさせていただきます。なお、レジュメの事前の郵送も承りますが、先述のとおり参加費が金500円追加となります。
<ZOOMの招待状について>
ZOOMでご参加いただくためには、事務局よりお送りさせていただく『招待状』よりご入室していただく必要があります。招待状につきましては、講座前日の午後4時以降にお送りします。
その他、ご不明な点がございましたら、ご遠慮なく下記の事務局にまでお問合せください。
<お問い合わせ先>
〒530-0051
大阪府大阪市北区太融寺町5-15梅田イーストビル8階
電話:050-3530-8995
メール:theaterspec@specgroup.jp
黒田裕樹の歴史講座事務局(株式会社スペック内)
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高橋是清(たかはしこれきよ)蔵相の積極財政によって、我が国は金融恐慌(きょうこう)や昭和恐慌など昭和初期に連続して発生した不況からようやく脱出できましたが、それまでの大きな歴史の流れが我が国に国家社会主義思想をもたらしていました。天皇を中心とはしながらも、国家社会主義の本質は「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して資本を人民で共有する」という点にあり、ソ連による共産主義と何ら変わるものではなかったのです。
国家社会主義は、当時の「エリート中のエリート」でありながらも決して裕福ではなかった若手の青年将校たちが、それゆえに富裕層である地主や資本家あるいは財閥(ざいばつ)に対してやるせない怒りを向けるとともに、彼らと癒着(ゆちゃく)している(と思い込んでいた)政党政治をも敵視したことによって、大きな広がりを見せるようになりました。
我が国における国家社会主義の拡大は、やがて陸軍内に「皇道派」と「統制派」という二つの大きなグループをもたらしました。このうち皇道派が荒木貞夫(あらきさだお)や真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)などを中心として、直接行動で既成の支配層を打倒することによって国家体制の転換を狙った一方、永田鉄山(ながたてつざん)や東條英機(とうじょうひでき)らを中心とした統制派は、革新官僚と結んで合法的に総力戦という名の社会主義体制を実現しようとしていました。
昭和10(1935)年には陸軍省内で執務中の統制派の永田鉄山が皇道派の陸軍中佐に殺害されるなど、両派は激しい派閥争いを繰り広げていましたが、「天皇の名によって議会を停止し、私有財産を国有化して社会主義的政策を実行する」という目的は両派共通のものでした。
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乱の後、後鳥羽上皇と子の土御門(つちみかど)上皇並びに順徳(じゅんとく)上皇は、北条氏によってそれぞれ隠岐(おき、現在の島根県隠岐郡)、土佐(とさ、現在の高知県)、佐渡(さど、現在の新潟県佐渡市)へと流されました。上皇(天皇)が武士によって処罰を受けるのは初めてのことであり、朝廷は大きな衝撃(しょうげき)を受けました。また順徳上皇の子で当時4歳の仲恭(ちゅうきょう)天皇がご即位後わずか78日で退位させられ、新たに後堀河(ごほりかわ)天皇が即位されました。
ちなみに、在位期間の短かった仲恭天皇はご即位が認められず、長らく「九条廃帝(くじょうはいてい)」と呼ばれました。仲恭天皇と追号(ついごう)されたのは明治になってからのことです。
また、後堀河天皇はご即位時に10歳と若かったため、父で出家されていた行助法親王(ぎょうじょほうしんのう)が還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)されて上皇となられ、院政を行われましたが、天皇ご即位の経験のない上皇は前代未聞のことでした。なお、上皇は崩御後に「後高倉院(ごたかくらいん)」と追号されています。
幕府は、乱後の京都に六波羅探題を置き、朝廷を監視するとともに西国の御家人の裁判や軍事などの統轄にあたらせる一方、上皇の味方をした公家や武士の所領の3,000余か所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命しました。
なお、乱後の地頭は新たな給分(きゅうぶん、給付される領地や米、銭などのこと)を定めた新補率法(しんぽりっぽう)に基づく「新補(しんぽ)地頭」と呼ばれ、従来の地頭は「本補(ほんぽ)地頭」と呼ばれました。これらによって、従来は東国が中心だった幕府の勢力範囲は畿内(きない)や西国にも及び、また朝廷では以後も引き続き院政が行われたものの、幕府が朝廷よりも優位に立つことで、皇位の継承や朝廷の政治にも関わるようになりました。
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