同時に方谷は、商人たちに対して今後は一切借財をしない代わりに、返済期間を延ばした計画書を一人ひとりに手渡し、認められました。後の改革の成果を考えれば、計画書がよほどしっかりした内容だったことで商人たちの信頼を勝ち取ったからではないかと思われます。
また、方谷は大坂の蔵屋敷(くらやしき)を廃止して、代わりに米を藩内に保管して、相場を見て売却するようにしました。これによって蔵屋敷の経費の節減と同時に、有利な時期に米を売ることで多額の利益を得て、そこから借財の返済に充(あ)てたのです。
蔵屋敷の廃止によって、藩内に年貢米を貯蔵する必要がありましたが、方谷は藩内各所に米を蓄(たくわ)える蔵(くら)を設けました。これらの蔵は飢饉(ききん)の際に米を配給するための倉庫の役割を果たしたため、幕末の飢饉において備中松山藩では一人の餓死者(がししゃ)も出さなかったそうです。
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