精煉方(せいれんかた)として着任した久重は藩主直正の期待に応え、安政2(1855)年には蒸気機関車や蒸気船の模型を完成させたほか、文久2(1862)年には蒸気船の原動力となる蒸気釜を製作しました。
久重によるこれらの努力は我が国における蒸気機関の発達に大いに役立ちましたが、そんな彼が手がけたひとつの「最新兵器」が我が国の歴史そのものを大きく変えることにつながったことを皆さんはご存知でしょうか。
その兵器の名を「アームストロング砲」といいます。
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新たな知識を自分のものとした久重は、日の出と日の入りの間をそれぞれ6等分するという、季節によって時間の長さが上下する我が国独特の不定時法(ふていじほう)に合わせた和時計(わどけい)である「須弥山儀(しゅみせんぎ)」を嘉永3(1850)年に製作しました。
さらに翌嘉永4(1851)年には、からくり時計の最高傑作となる「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」を完成させました。
通称を「万年時計」として知られるこの時計は21世紀の平成16(2004)年に復元され、翌平成17(2005)年の「愛・地球博」にレプリカが展示される予定でしたが、あまりに精巧な技術を使用していたため解析に時間がかかり、博覧会の開催までに完全な復元が間に合わなかったそうです。
万年時計によって久重がさらに名を挙げたこの頃、嘉永6(1853)年にアメリカのペリーが黒船で来航して世は幕末となり、西洋に負けない技術力が必要となっていました。そんな時代に合わせるかのように、久重の人生にも新たな進展が見られるようになっていくのです。
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天保8(1837)年には大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱が起きて、一家が焼け出されてしまうという不幸を経験しましたが、それにめげることなく、久重は同じ年に「無尽灯(むじんとう)」を発明しました。
無尽灯は、菜種油(なたねあぶら)に空気の圧力を加え、管(くだ)をつたって灯心(とうしん)に昇らせるように工夫したものであり、長時間にわたって安定した灯火(ともしび)を供給することが可能になり、商売や生活水準の向上に大きな貢献をしました。
その他にも、久重は仕掛け花火の工夫をしたり、約10メートルの高さまで水を噴き上げたとされる消火用ポンプの「雲竜水(うんりゅうすい)」などを発明したりするなど、「からくり儀右衛門」の名に恥じない活躍を続けました。
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やがて成人した久重は「からくり興行師」として、大坂や京都あるいは江戸などを行脚(あんぎゃ)しては次々と新作のからくり人形を人々に紹介し、その名が全国に知られるようになったのです。
久重が作ったからくり人形は多数存在しますが、なかでも有名なものとしては、人形が持つ台の上に盃(さかずき)を置くと動き出し、盃を取ると止まるという「童子盃台(どうじはいだい)」や、人形が矢立てから矢を取り、弓につがえて的を射るという高度な動作を繰り返す「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」などがあります。
このうち、弓曳童子は4本の矢のうち1本だけをわざと射損じるという高度な演出を加えており、こうした久重の洗練されたセンスが、興行師として彼を大成功に導いたのでしょう。
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その女性とは、同じ久留米に住んでした井上伝(いのうえでん)であり、彼女は久留米絣(くるめがすり)の創始者でしたが、絣に絵を入れることがどうしても出来ず、儀右衛門に依頼したのでした。
儀右衛門は伝の期待に応えて、絣に絵模様(えもよう)を織り込むための織機(しょっき)を完成させ、久留米絣の技術をさらに向上させることに成功しました。この時、儀右衛門はわずかに15歳です。
発明家として自信を深めた儀右衛門は、愛読していた「機巧図彙(からくりずい)」という様々なからくりの仕掛けを図解した本の影響も受けて、寝る間も惜しんで創作に明け暮れる毎日を送っていました。
そんな儀右衛門に対して、父の弥右衛門はべっこう細工の家業を継いでくれるように願っていましたが、創作意欲に燃えていた儀右衛門は、やがて「日本一のからくり師」を目指して自分で生計を立てる決意をしました。
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べっこう細工師は、タイマイ(ウミガメの一種)の甲羅(こうら)を利用した工芸品や装飾品を作成するのを生業(なりわい)としており、非常に精緻(せいち、極めて詳しく細かいこと)な金属細工を必要としていました。
儀右衛門は、幼い頃から父や職人による高度な技巧を見て育つとともに、血のつながりもあったためか生まれつき手先が大変器用でした。9歳の頃、儀右衛門は通っていた寺子屋にお手製の硯箱(すずりばこ)を持参し、開けてみるよう仲間に声をかけましたが、誰も開けることが出来ませんでした。
実は硯箱には巧妙な細工がしてあり、仕掛けを知っている儀右衛門だけが開けることが出来たのです。普段から自分の硯箱を仲間に勝手に開けられていたことで思いついたからくりだったのですが、こうした工夫が簡単にできるあたりが、儀右衛門の豊かな将来性を感じさせるエピソードでもありますね。
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敗戦からの復興を実現させた原動力は電機や自動車などの技術面が主流であり、我が国はかねてより「技術立国」とも呼ばれていますが、こうした科学技術の発展は名もない人々による「ものづくり」の精神によって支えられているということを皆さんはご存知でしょうか。
我が国における「ものづくり」の精神の歴史は今に始まったわけではありません。島国という資源などが限られた環境で、日本人は昔から創意工夫を重ねて生活を少しずつ向上させていきました。
政治や戦いなどで名前が知られている歴史上の人物に比べると、「ものづくり」を極めた技術者や発明家などに関する知名度は今一つのようですが、そんな彼らの生涯をたどっていくことで、私たちは新たな面から歴史の流れをつかむことが可能になるのです。
ここからは、江戸後期から明治初期にかけて活躍した発明家である田中久重の人生を振り返りながら、彼がもたらした我が国の発展に欠かせない大きな歴史の流れを見極めたいと思います。
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また、いかに財政が豊かになろうとも、藩を守るためには軍制の改革が欠かせません。方谷が壮健な者を選(え)りすぐって里正隊という独自の軍隊をつくり上げたことは、戊辰戦争の際の大きな「抑止力」として備中松山藩を救う結果となりました。
これらの例を見ても分かるように、経済政策の成功のカギは単なる金融政策や財政政策だけでなく、将来を見据(みす)えた「教育」や「防衛」こそが握っているといえるでしょう。
10万両の借財を短期間ですべて返済したばかりか、逆に10万両の蓄財を達成し、実質2万石に満たなかった藩を20万石の実力があると周囲に認めさせるほどの改革を成し遂げた山田方谷。
我が国が本当の意味で「強い国家と豊かな生活を取り戻す」ためにも、私たちは今こそ山田方谷の精神に学ぶべきではないでしょうか。
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しかし、江戸幕府の老中首座だった藩主の板倉勝静(かつきよ)に長年仕え、同時に彼を支え続けてきた方谷は、年齢のこともあって新政府への出仕を断りました。
その後の方谷は備中へ戻って私塾を開いたほか、我が国最古の庶民(しょみん)のための学校であった閑谷(しずたに)学校を再興するなど弟子の育成に力を尽くしましたが、明治10(1877)年に73歳でこの世を去りました。
方谷が亡くなってから約50年経った昭和3(1928)年、方谷ゆかりの地に国鉄(現在のJR)伯備線が開通した際に、地元民の熱意によって先述のとおり「方谷駅」がつくられたほか、21世紀の平成18(2006)年には、それ以前の昭和52(1977)年に岡山県出身の天文学者が新たに発見した小惑星に対して「山田方谷」と名づけることが認められました。
藩のためだけでなく、名もない多くの領民のために心血を注いだ山田方谷の生き様は、時代を超えた今もなお多くの人々に慕われ続けているのです。
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「親殺しや主君殺しを意味する『大逆無道』を加えるとは何事か。我が藩は一度たりとも朝廷に刃(やいば)を向けたことがない以上、この四文字は自らの命に代えても受けいれられない」。
方谷による命がけの抗議に対して官軍も折れ、最終的に「軽挙暴動(けいきょぼうどう)」に変更することで備中松山藩は無血開城しました。また方谷は、旧幕府軍に随行していた藩主の勝静(かつきよ)を強引に東京へ連れ戻して新政府へ自首させたことで、5万石を2万石に削られこそしたものの、明治2(1869)年には藩の再興が認められました。
藩主が老中首座という重職にありながら備中松山藩の処分が他藩に比べて軽かった背景には、方谷が組織した里正隊が本格的な軍隊であったことによる抑止力や、方谷が地元の農民から「生き神様」と慕(した)われていたこと、そして何よりも方谷の財政家としての類稀(たぐいまれ)な手腕を惜しんだからではないかと考えられています。
なお、方谷は慶応(けいおう)3(1867)年に行われた大政奉還において上奏文(じょうそうぶん、なお「上奏」とは天皇に意見や事情などを申し上げること)の草案を作成したという説もあります。
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