一方、当時の我が国では先述のとおり田沼意次による政治が行われていました。もし「庚子」→「辛丑」の時期、すなわち田沼政治が安定していた頃に我が国が開国にこぎつけていればどうなっていたでしょうか。
重商主義の政策を行ってきた意次であれば、恐らくは後の史実とは比べ物にならないほどスムーズに開国ができたのではないかと考えられます。また、この直後に「天明の大飢饉(だいききん)」が発生しますが、外国との門戸を広く開放していれば、あるいは食糧の緊急輸入も可能になっていたかもしれず、大量の餓死者(がししゃ)を出さずに済んだかもしれません。
加えて、当時はアメリカの独立が確定したばかりでしたから、その後の世界の歴史は様変わりしたことでしょう。時機を失することの影響の大きさがうかがえます。
なお、史実において意次の息子で若年寄(わかどしより)の田沼意知(たぬまおきとも)が天明4(1784)年に事件によって殺害されていますが、開国が軌道に乗って意知の周囲の環境が好転していれば、彼が長生きして意次の政策を引き継ぐことによって、我が国は全く違った歴史を歩んだ可能性が高いのです。
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