「今後、内閣が私に上奏することは、たとえ自分の考えと反対の意見であったとしても、裁可を与えることにしよう」。
昭和天皇にとっては立憲君主というご自身のお立場をお考えになってのご決断でしたが、時代は統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)に関する問題が深刻化しており(詳しくは後述します)、陛下のご決断は、結果として軍部の様々な行動を黙認されることにつながってしまいました。
これ以降、昭和天皇は内閣とは無関係にご自身で政治的な問題に決断されることが2回ありました。それは、昭和11(1936)年2月の「二・二六事件」と、昭和20(1945)年8月のいわゆる「終戦のご聖断」です。
なお、張作霖爆殺事件は関東軍の河本大作大佐が首謀者であったと長いあいだ考えられてきましたが、最近の研究ではソ連のコミンテルンによる謀略ではないかという説も出てきています。
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さて、後に田中義一の死去をお知りになった昭和天皇は、お心の中で「しまった」と思われました。なぜなら、陛下が行われたことは結果的に大日本帝国憲法(=明治憲法)で定められた立憲君主制に反することだったからです。
いくら曖昧(あいまい)な報告だったからとはいえ、昭和天皇が田中首相に直接辞職を迫られたことは「天皇による政治への介入」に他なりませんでした。これは「国王は君臨すれども統治せず」とする立憲君主制の原則を明らかに破ることなのです。
まして、ご自身の発せられた言葉が内閣を総辞職させたのみならず、首相を死に追いやったかもしれないという結果が、日頃から責任感のお強かった昭和天皇に大きな影響をもたらすことになりました。
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そのためには、軍隊であっても当然規則を守らねばならないはずなのに、大きな事件を起こしたばかりか、その結果をうやむやにしようとする田中首相の報告を昭和天皇はお許しになられなかったのです。そして、そのお怒りがさらなるお言葉を生み出してしまいました。
「辞表を出してはどうか」。
昭和天皇から直接辞職を迫られた田中首相は大きなショックを受けて、5日後の7月2日に内閣を総辞職すると、それから3か月も経たない同年9月29日に死亡してしまいました。
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北京へ迫る蒋介石の国民革命軍と満州を守る日本軍とに挟まれた張作霖は総退却を決断し、昭和3(1928)年6月に再起を期して北京から満州へと列車で移動しましたが、同月4日に奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)郊外で列車ごと爆破されて死亡しました。
この「張作霖爆殺事件」は当時「満州某(ぼう)重大事件」と報じられ、国民には真相が知らされていませんでしたが、やがて事件の首謀者として関東軍の河本大作(こうもとだいさく)大佐が浮かび上がりました。
田中首相は、昭和天皇の思召(おぼしめ)しもあって事件の関係者の厳重処分を決断しましたが、閣僚や陸軍の反対を受けてしまい、結局事件をうやむやにしたうえで、翌昭和4(1929)年6月27日に調査結果を昭和天皇に上奏(じょうそう、天皇に意見や事情などを申し上げること)しました。
まだ28歳とお若かった昭和天皇のお顔の色がにわかに変わり、お怒りの声を発せられました。
「この前の約束と話が違うではないか!」
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国民革命軍による非人道的な虐殺行為に激高した我が国は、直ちに「第三次山東出兵」を行って済南城を攻撃すると、革命軍は夜陰に乗じて城外に脱出し、日本軍が済南を占領しました。これら一連の流れは「済南事件」と呼ばれています。
当時の欧米列強は日本軍による軍事行為を正当防衛と認めましたが、済南で日本軍がチャイナの便衣兵(べんいへい、いわゆるゲリラのこと)を射殺した際、その中にチャイナの外交官も含まれていたことから、チャイナが「日本軍が無抵抗の外交官を虐殺した」と喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)したほか、国際連盟に提訴するなどして我が国を激しく非難しました。
ところで、我が国の歴史教科書には済南事件についての記述はあるものの、チャイナによる虐殺行為が一切書かれていないため、なぜ日本軍が国民革命軍を攻撃したのかという理由が分からなくなっています。
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一方、田中内閣は昭和2(1927)年6月に東京で日中の外交官や軍人など関係者を招集して「東方会議」を開き、チャイナにおける我が国の権益を守るために積極的に防衛対策を行うことが決められました。
翌1928(昭和3)年に蒋介石が北伐を再開すると、田中内閣は同年4月に「第二次山東出兵」を行い、多数の日本人が居留していた済南(さいなん)を警備しました。5月になって蒋介石の国民革命軍が済南に入城すると、日章旗を損傷したり、排日ビラを貼付(ちょうふ)したりするなどの反日行為を行ったため、日本軍が抗議しました。
これに対し、蒋介石は「済南の治安は革命軍が責任を持って確保するので、城内の日本軍による警備を撤去してほしい」と申し入れしてきたので、蒋介石を信用した日本軍は、夜を徹して兵を引き揚げました。
しかし、このことが信じられないような虐殺(ぎゃくさつ)事件を招いてしまうのです。
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「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合がございますのでご留意ください。
①会場入り口に備え付けてある『消毒用アルコール』で手指を消毒してください。
②受講中は『マスク』着用を必須とします。
③『咳エチケット』をお守りください。
④風邪症状がある場合等は受講を慎重にご判断ください。咳・発熱などの一般的な風邪症状がある場合には、受講をお控えいただくようお願いいたします。
オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりますので、ご参照ください。また、準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは3日前(7月22日)の正午(午後0時)までとなりますのでご注意ください。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。

(クリックで拡大されます)
第85回黒田裕樹の歴史講座「山田方谷と田中久重」
今回は、幕末から明治初期にかけて偉大な功績を残した二人の人物を紹介します。破綻寸前だった藩の財政を立て直したのみならず、教育者として多くの優秀な人材を育成した山田方谷と、稀代の発明家「からくり儀右衛門」としてその名を知られ、我が国が世界に誇る大手電機メーカーの礎となった田中久重。二人の生き様が黒田節でよみがえります。ご期待ください!
主催:株式会社スペック・正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:令和3年7月25日(日) 午後2時より
会場:シアターSPEC(株式会社スペック)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
※会場は「太融寺」交差点角の太融寺の隣、茶色いレンガ模様の9階建てのビルの8階です。1階に大阪商工信用金庫があります。ホワイティうめだの「泉の広場」M14出口を左側から出て、扇町通沿いに真っ直ぐ歩いてください。
参加費:金2,000円(税込・高校生以下は無料、その他学生割引あり)
※オンライン式講習会のお申し込みにおいて、レジュメを事前に郵送でご希望の場合は金2,500円(税込)になります。
オンライン式講習会のお申し込み締め切り:7月22日の正午(午後0時)まで
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①まずはこちらのURLから「お申し込み」をクリックしてください。
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②講座申込フォームに必要事項を記載のうえ、送信してください。折り返し、ご指定のメールアドレスに事務局からの案内メールが届きますので、それをご参照のうえ、24時間以内にPayPalまたは銀行振込で参加費をお支払いください。
③講座当日に使用するレジュメは、ご入金確認後にレジュメデータ(PDF)をメールにてお送りさせていただきます。なお、ご入金の確認が取れない方につきましては、キャンセル扱いとなりますのでご注意ください。
<当日ご準備いただくもの>
①カメラ&マイク機能搭載のパソコン
※スマートフォンのアプリからもご使用いただけますが、画質・音質に不具合が生じる可能性があります。スマートフォン以外のパソコンを使用されることを推奨いたします。
②歴史講座レジュメ
※レジュメにつきましては、ご入金後にメールにてレジュメデータ(PDF)をお送りさせていただきます。なお、レジュメの事前の郵送も承りますが、先述のとおり参加費が金500円追加となります。
<ZOOMの招待状について>
ZOOMでご参加いただくためには、事務局よりお送りさせていただく『招待状』よりご入室していただく必要があります。招待状につきましては、講座前日の午後4時以降にお送りします。
その他、ご不明な点がございましたら、ご遠慮なく下記の事務局にまでお問合せください。
<お問い合わせ先>
〒530-0051
大阪府大阪市北区太融寺町5-15梅田イーストビル8階
電話:050-3530-8995
メール:theaterspec@specgroup.jp
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昭和2(1927)年の中国大陸では、蒋介石(しょうかいせき)の国民革命軍による北伐(ほくばつ)が急激に進み、北京・天津(てんしん)方面から山東(さんとう)半島へと迫りつつありましたが、山東半島には数多くの日本人が居留していたほか、莫大(ばくだい)な投資を行っていましたため、先述した南京(ナンキン)事件や漢口(かんこう)事件といった悲劇を繰り返さないためにも、これらの人的あるいは物的な保護が政府の大きな課題となりました。
昭和2(1927)年5月、田中内閣はイギリスやアメリカ・フランス・イタリアといった諸外国に事前に連絡し、反対がないことを確認したうえで山東半島へ向けて出兵しました。これを「第一次山東出兵」といいます。
第一次山東出兵の後で、蒋介石が北方軍閥(ぐんばつ)に敗れて北伐を中止すると、山東半島における危機が去ったとみなした日本軍は同年9月までに撤兵しました。
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度重なる恐慌で銀行の休業や倒産が相次いだことや、政府が弱小銀行や不良銀行の整理に着手したことによって、いわゆる大銀行に多くの預金が集中することになりました。三井・三菱・安田・住友・第一のいわゆる五大銀行への預金は昭和4(1929)年には全体の35%にまで達しています。
これらの大銀行は財閥との結びつきが強く、金融恐慌でも大きな打撃を受けなかった財閥は経済界において大きな地位を占めることとなり、やがて独占資本を形成するようになりました。
なお、不況時における弱小銀行の整理や大銀行への統合は他の分野における企業の集中をもたらし、日本の紡績業が第一次世界大戦後にチャイナの紡績工場を次々と建設するなど(これらは「在華紡(ざいかぼう)」と呼ばれました)、産業資本の輸出も促進されるようになりました。
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恐慌を起こした政権の責任はともかくとして、金融政策は本来であれば一刻も早く実施しなければならないものです。しかし、現実には野党の立憲政友会が「政争の具」として枢密院に「待った」をかけさせたことで、政策の実現が遅れただけでなく、台湾銀行も休業に追い込まれてしまいました。
また、枢密院は第一次若槻内閣の失政の一つとして「幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相による協調外交の失敗」を非難していますが、外交問題を国内の政争に利用するという姿勢にも疑問符を付けざるを得ないのではないでしょうか。
いずれにせよ、政争のためには「何でもあり」という当時の政党の手法が、後述する「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」の問題を引き起こし、我が国を苦境へと追い込むことになったのは間違いないでしょう。
もっとも、政権交代で高橋是清が大蔵大臣になったからこそ金融恐慌が早く収拾できたともいえますし、また第一次若槻内閣の幣原外相から田中義一内閣に代わったことで、それまでの協調外交の姿勢が改まった(詳しくはいずれ後述します)というメリットがあったのも事実ではあります。
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