十干十二支において、令和2(2020)年は「庚子」でした。この年は「これまでとは異なる斬新な思考で、人との縁(えにし)を大切にする年」です。
「子」は「種子」に通じ、将来に備えて新たな種まきをする意味ですが、それに「庚」が加わると「これまでとは異なる」、すなわち「これまでの関係をリセットして新規まき直しをする」意味となります。
要するに「庚子」の年は「これまでとは全く異なる動きが発生する中で将来に備える」ことが何よりも重要であり、実際に令和2(2020)年は新型コロナウィルス感染症によって世界中が大混乱になりました。
この混乱は今年、すなわち令和3(2021)年も続いておりますが、実は十干十二支からもその傾向が明らかになっています。なぜなら、令和3(2021)年は「辛丑(かのとうし)」だからです。
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また、アイヌの自立を目指した意次は農作業を教えようとまで計画しました。これは、アイヌの生活を安定化させると藩の財政を支えるサケや毛皮などをとって来なくなるからという、松前藩の身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国への大きな一歩となったはずだったのですが、翌天明6(1786)年に意次が失脚すると、彼に代わって政治の実権を握った松平定信(まつだいらさだのぶ)によって、意次の政策が中止されてしまったのです。
もし意次があと数年政治の実権を握っていればと惜しまれるところですが、私は史実よりももっと早く、安永(あんえい)9(1780)年に意次が蝦夷地の調査を開始していれば、恐らく我が国は自主的に開国をなし得ていたと考えています。
なぜなら、安永9(1780)年は昨年の令和2(2020)年と同じ「庚子(かのえね)」の年だからです。
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しかし、長年の太平の世が我が国に「平和ボケ」をもたらし、他国の発展ぶりから取り残されたことで、ペリーによる黒船来航を契機に我が国が大混乱となったのもまた事実です。だとすれば、いつ政策を「開国」に転換すればよかったのでしょうか。
実は、史実においても我が国が自主的に開国する機会が何度かありました。その中でも最大のチャンスだったのが、田沼意次(たぬまおきつぐ)が政治の実権を握っていた18世紀の後半でした。
仙台藩の医者であった工藤平助(くどうへいすけ)は、北方に位置するロシアが南下を目指しており、将来我が国にとって災いとなる恐れがあること、また南下を防ぐ対策の一つとして蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の開発を行うべきであるという「赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)」を著しました。
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史実において、我が国は鎖国によって200年以上の平和を享受しましたが、こうした太平の世を完全に達成できたからこそ、綱吉が満を持して自身の政策を行うことが可能になったと言えるでしょう。
すなわち、もし我が国が鎖国をしなければ、後の綱吉の政策が実行されないかあるいは不十分なものとなり、日本人の「思いやり精神」が取り戻せなかった可能性もあります。例えば、我々が自宅の書斎の机の引き出しに短銃を隠し持っているのが当たり前になっているかもしれません。
また、長年の平和によって一般庶民の生活が豊かになったことから発展した元禄文化が存在しなければ、イギリスのように産業革命を成功させた後も、労働者と使用者との対立関係が激化して様々な社会運動が発生したり、あるいは苦しい生活を送る庶民の欲求を満たすという名目で共産主義が広まったりしたかもしれないのです。
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こうした伝染病を防止するためや、野犬化によって犬自身が被害を受ける前に保護しようという考えがあったからこそ、犬に関する様々な法令がつくられたのです。この他、生類憐みの令では病気になった牛馬をきちんと療養させることや捨て子の禁止、あるいは人が旅先で病気になっても旅籠で面倒をみることなども義務付けています。
確かに、人間よりも動物の方が大切であるかのような法令には行き過ぎた問題がありましたが、年月の経過とともに骨の髄にまで染み付いてしまった「戦国の遺風」をなくすためには、ある意味では「劇薬」ともいえるショック療法が必要でした。
江戸時代には落語の世界の「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったと一般に知られていますが、初期はむしろ全く逆でした。しかし、綱吉の出した法令がそれを180度転換し、生命を大切にするとともに相手の立場を尊重するという道徳心をもたらし、現代にまで続いているのです。
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しかし、彼が発布した「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」が当時の日本人の精神を根本から改め、以前の「日本人独自の道徳や思いやりの精神」を取り戻したのです。
生類憐みの令といっても、そういう名前の法令が出されたわけではなく、貞享(じょうきょう)2(1685)年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触(ふ)れが出されて以来、約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令が出されたものを総称して名付けられたものです。また、その内容も多岐に渡っており、犬に関するものは33件と全体の約4分の1に過ぎません。
数多くの法令の中には「鳥類などを口にしてはいけない」という食卓での禁令など、次第にエスカレートしたものが多かったのは確かです。しかし、法令の底辺にあったのは「動物愛護」から「人命尊重」へとつながっていった、確固たる綱吉の意思でした。
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かくして、17世紀後半までの我が国では全国でいわゆる「戦国の遺風」が残っており、至るところで血なまぐさい事件が起こるという殺伐(さつばつ)とした雰囲気が我が国全体における道徳心の低下をもたらすという有様でした。
例えば、この当時は作業に使役させる目的で牛や馬が飼われていましたが、年老いたり病気になったりすると、動けるうちから追放して死なせることがよくありました。また、貧しさなどもあって生まれたばかりの赤ん坊を捨て子にすることが多かったり、人が旅先で病気になると旅籠(はたご)から追い出されたりすることも日常茶飯事でした。
しかし、史実においてこうした遺風を綺麗さっぱり一掃した政治家が現れました。先述した5代将軍の徳川綱吉です。
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慶長(けいちょう)8(1603)年、徳川家康(とくがわいえやす)は朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸に幕府を開きましたが、当時の家康は諸外国との貿易に積極的であったのみならず、オランダからの要請で日本人傭兵(ようへい)を「輸出」していました。
最近発見された資料によって、オランダが多くの日本人傭兵を輸入していたことが分かりました。傭兵となった「サムライ」たちは、当時イスパニア(=スペイン)が支配していたインドネシアのモルッカ諸島を攻略するなど大活躍し、いわゆる「オランダ領東インド」の植民地獲得に貢献したのです。
しかし、そんな傭兵たちは戦争に強かったと同時に気性が大変に荒く、現地の指揮官は彼らの扱いに細心の注意を払わなければなりませんでした。
なぜなら、戦国時代は「人を殺せば出世する」からであり、その流れは当時の一般庶民まで同じだったからです。
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なぜなら、幕府を頂点とするいわゆる「幕藩体制」が武力で他藩などを支配することで成り立っていたからです。島原の乱が数か月も鎮圧できなかったことは、幕府のプライドを大いに傷つけたのみならず、他の藩に「自分たちも幕府に反逆できるかもしれない」という流れを生み出しかねない深刻な事態でした。
しかも、島原の乱の中心となったのはキリシタンの勢力ですから、もしこのままキリシタンを野放しにしたことで第二・第三の「島原の乱」が起きてしまえば、それこそ幕府の威信は文字どおり地に堕(お)ちてしまいます。
だからこそ、幕府は二度と自分に逆らう勢力を誕生させないために、史実のとおりカトリックを禁教にするとともに信仰する諸国と国交を断絶し、同じキリスト教でもプロテスタントであり、我が国での布教をしないと約束したオランダや、同じアジアの国同士であるチャイナの清国(しんこく)や朝鮮など限られた国との間でしか貿易を行わないようにしたと考えられるのです。
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しかし、信綱の動きを察した肥前藩の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜け駆(が)けをしたために、一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を出してしまいました。
一方の一揆勢も壊滅(かいめつ)状態となって、天草四郎が討ち取られるなど、ほとんどが殺害されました。こうして島原の乱はようやく鎮圧されましたが、幕府が受けたダメージはかなり大きなものがありました。
なお、乱後に松倉勝家は領地を没収されただけでなく、大名としては異例の斬首刑に処せられ、寺沢堅高は唐津藩の領地のうち天草領を没収されると、ショックを受けたのか後に自害して、寺沢家は御家断絶になりました。また、抜け駆けした鍋島勝茂も罰を受けています。
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