なぜなら、会津藩主の松平容保(かたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組による池田屋事件などで多くの藩士を殺されていましたから、その恨みは深いものがありました。
会津藩は会津若松城に籠城(ろうじょう)して抵抗を続けましたが、先述した肥前藩のアームストロング砲による激しい砲撃もあり、明治元(1868)年旧暦9月22日に降伏しました。この戦いを「会津戦争」といいます。
会津戦争には、平均年齢が16~17歳の男子で編成され、壮絶な自刃を遂げた「白虎隊(びゃっこたい)」などの悲劇のエピソードが多く残されていますが、かつては孝明天皇から朝廷への忠節に対するお褒(ほ)めのお言葉を賜(たまわ)った会津藩が、いかに時代が変わったとはいえ、戊辰戦争において新政府軍に「錦の御旗」を向けられ、朝敵として戦わなければならなかったとは何という運命の巡り合わせでしょうか。
なお、会津戦争を経て、旧幕府軍の残存兵力は仙台から蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の箱館(現在の函館)へと移動し、新政府軍との最終決戦が行われることになりました。
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①会場入り口に備え付けてある『消毒用アルコール』で手指を消毒してください。
②受講中は『マスク』着用を必須とします。
③『咳エチケット』をお守りください。
④風邪症状がある場合等は受講を慎重にご判断ください。咳・発熱などの一般的な風邪症状がある場合には、受講をお控えいただくようお願いいたします。
オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりますので、ご参照ください。また、準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは3日前(5月27日)の正午(午後0時)までとなりますのでご注意ください。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。

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第84回黒田裕樹の歴史講座「江戸時代・番外編 ~もし鎖国なかりせば~」
今回は江戸時代の番外編として、もし江戸幕府が鎖国をしなかった場合に我が国の歴史がどうなったかを大胆に考察します。実は、我が国が鎖国をしなければ、現代の日本人の性格が大きく変わった可能性がありますし、また鎖国をしたとしても、史実より早く開国できるチャンスはいくらでもありました。ただ、最大の機会に「時」を活かせなかったことが、世界の歴史を大きく変えることになったのです。詳しくは当日の黒田節に乞うご期待!
主催:株式会社スペック・正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:令和3年5月30日(日) 午後2時より
会場:シアターSPEC(株式会社スペック)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
※会場は「太融寺」交差点角の太融寺の隣、茶色いレンガ模様の9階建てのビルの8階です。1階に大阪商工信用金庫があります。ホワイティうめだの「泉の広場」M14出口を左側から出て、扇町通沿いに真っ直ぐ歩いてください。
参加費:金2,000円(税込・高校生以下は無料、その他学生割引あり)
※オンライン式講習会のお申し込みにおいて、レジュメを事前に郵送でご希望の場合は金2,500円(税込)になります。
オンライン式講習会のお申し込み締め切り:5月27日の正午(午後0時)まで
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①まずはこちらのURLから「お申し込み」をクリックしてください。
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②講座申込フォームに必要事項を記載のうえ、送信してください。折り返し、ご指定のメールアドレスに事務局からの案内メールが届きますので、それをご参照のうえ、24時間以内にPayPalまたは銀行振込で参加費をお支払いください。
③講座当日に使用するレジュメは、ご入金確認後にレジュメデータ(PDF)をメールにてお送りさせていただきます。なお、ご入金の確認が取れない方につきましては、キャンセル扱いとなりますのでご注意ください。
<当日ご準備いただくもの>
①カメラ&マイク機能搭載のパソコン
※スマートフォンのアプリからもご使用いただけますが、画質・音質に不具合が生じる可能性があります。スマートフォン以外のパソコンを使用されることを推奨いたします。
②歴史講座レジュメ
※レジュメにつきましては、ご入金後にメールにてレジュメデータ(PDF)をお送りさせていただきます。なお、レジュメの事前の郵送も承りますが、先述のとおり参加費が金500円追加となります。
<ZOOMの招待状について>
ZOOMでご参加いただくためには、事務局よりお送りさせていただく『招待状』よりご入室していただく必要があります。招待状につきましては、講座前日の午後4時以降にお送りします。
その他、ご不明な点がございましたら、ご遠慮なく下記の事務局にまでお問合せください。
<お問い合わせ先>
〒530-0051
大阪府大阪市北区太融寺町5-15梅田イーストビル8階
電話:050-3530-8995
メール:theaterspec@specgroup.jp
黒田裕樹の歴史講座事務局(株式会社スペック内)
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戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単には決着しないと思われましたが、新政府軍が肥前(ひぜん)藩の所有するアームストロング砲などの最新兵器を活用したことで戦いは1日で終わり、彰義隊は壊滅しました。
鳥羽・伏見の戦いと同様に最新兵器の能力の高さを思い知らされる戦争となりましたが、敗れた彰義隊の残存兵力は東北地方などへ落ちのび、戦いはさらに続くことになりました。
なお、上野から少し離れた現在の東京都港区浜松町で慶應義塾(けいおうぎじゅく)を開いていた福沢諭吉は、遠くから聞こえてくる戦争の轟音(ごうおん)が響くなかでも平然と自ら講義を続けていたというエピソードが残っています。
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この後旧暦4月に江戸城は争うことなく開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避できたほか、江戸を焼け野原から防いだことは、指揮系統が寸断されて諸外国の介入を招くこともなく、また後の首都移転などの大きな効果をもたらすことになりました。
江戸城の無血開城の立役者は西郷や勝海舟であると一般的には言われていますが、その西郷と事前に命懸けで交渉を行った山岡鉄舟の功績も見逃せません。現実に、西郷は山岡に対して以下のような賛辞を贈っています。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」。
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「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
山岡の決死の意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰まりました。やがて山岡の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着しました。
山岡は翌旧暦3月10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。
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江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、同年旧暦3月9日に東征大総督府参謀(とうせいだいそうとくふさんぼう)の西郷隆盛と会見させました。
山岡は勝の手紙を西郷へ渡して朝廷に取り計らうよう依頼しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突き付けました。西郷の条件は江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは「徳川慶喜の身柄(みがら)を備前藩に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪(るざい)になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも絶対に受けいれられなかったのです。
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ところが、前回(第82回)も紹介したとおり、幕末を迎える頃までに水戸学は「主君としてふさわしいのは幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室であり、また諸外国からのいわゆる外圧に対しては、これを排除すべきである」とする尊王攘夷の考えが中心となっていました。
要するに、徳川家でありながら皇室を重視する学問を慶喜自身が幼い頃から身に付けていたことによって、慶喜は将軍家でありながら同時に皇室も尊敬しており、だからこそ慶喜にとって自らが朝敵となることは、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも絶対に許されないことだったのです。
こうした慶喜の姿勢が一般的に「弱腰」と見なされることが多いですが、逆から見れば、慶喜が朝廷と争わずに謹慎したからこそ、徳川家が滅ぼされることもなければ諸外国の介入を招くこともなく、また後述するように江戸の町を戦火にさらすことを防げたことを私たちはもっと知るべきではないでしょうか。
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戦いに勝利した新政府軍は慶喜を正式に朝敵とみなし、征討軍を江戸へと向かわせました。この中には赤報隊(せきほうたい)を結成し、年貢(ねんぐ)を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたものの、新政府から偽官軍として処刑された相楽総三(さがらそうぞう)もいました。
江戸城に戻った慶喜は、幕臣の小栗忠順(おぐりただまさ)による徹底抗戦の意見を退け、フランス公使のロッシュの援助も断り、江戸城を出て上野の寛永寺(かんえいじ)で謹慎しました。
いかに鳥羽・伏見の戦いで敗れたとはいえ、旧幕府を支持する兵力はまだ多く、今後の展開次第では軍事的勝利も十分考えられたはずなのに、なぜ慶喜は朝廷に対して恭順(きょうじゅん、命令につつしんで従う態度をとること)の姿勢をとり続けたのでしょうか。
その背景には、慶喜に隠された「血の秘密」があったのです。
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当時の兵力は、旧幕府軍の約15,000名に対して新政府軍は約5,000名しかおらず、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいました。しかし、いざ蓋(ふた)を開けてみれば新政府軍の圧勝に終わったのです。
新政府軍が勝利した大きな理由の一つとしては、旧幕府軍と比べて最新鋭の鉄砲などの火器が充実していたことが挙げられます。戦いはもはや兵力の多寡(たか、多いか少ないかの量のこと)ではなく、いかに優れた火器を多く使用できるか、という点が重視されていました。
さらにもう一つの大きな理由は、新政府軍が明治天皇から下賜(かし、高貴の人が身分の低い人に物を与えること)された「錦の御旗(みはた)」でした。戦場に錦の御旗が掲げられたということは、新政府軍が官軍となった一方で、旧幕府軍が賊軍、つまり「朝敵(ちょうてき)」になったことを意味していました。
そして、この厳然たる事実にもっとも敏感に反応したのが前将軍の徳川慶喜だったのです。
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しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所会議の内容が骨抜きにされ、慶喜の実権が温存されようとしました。
このため、西郷隆盛が最後の手段とばかりに、江戸の商家を薩摩藩という身分を隠さずに片っ端(ぱし)から襲って旧幕府を挑発した結果、薩摩藩江戸屋敷が旧幕府兵によって焼き討ちされたことで、慶喜の名誉が回復する前に戊辰(ぼしん)戦争を起こさせることに成功しました。
西郷による「なりふり構わぬ策士ぶり」が歴史を大きく動かしたことになりますね。
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