文久3(1863)年旧暦8月18日、薩摩藩と藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職を務めていた会津藩の両藩は、同じく公武合体派の公家らとともに朝廷における実権を奪い、三条実美らの公家や長州藩の急進的尊攘派を京都から追放しました。これを「八月十八日の政変」といいます。
この動きに前後して、同じ文久3(1863)年に公家の中山忠光(なかやまただみつ)や土佐(とさ)藩士の吉村虎太郎(よしむらとらたろう)らが大和五条(やまとごじょう、現在の奈良県五條市)の代官所を襲った「天誅組(てんちゅうぐみ)の変」や、元福岡藩士の平野国臣(ひらのくにおみ)らが但馬生野(たじまいくの、現在の兵庫県朝来市生野町)の代官所を襲った「生野の変」、さらには翌元治(げんじ)元(1864)年に水戸藩士の武田耕雲斎(たけだこううんさい)や藤田小四郎(ふじたこしろう)らが尊王攘夷の目的を掲げて筑波山(つくばさん)で挙兵した「天狗党(てんぐとう)の乱」が起こりましたが、いずれも失敗に終わっています。
ところで、京都を追われた長州藩でしたが、諸藩の尊攘派の志士とともに密かに京都に舞い戻って勢力の回復を期していました。しかし、彼らの動きは幕府側の知るところとなり、やがて歴史に残る大事件が起きてしまいました。
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文久2(1862)年旧暦8月21日、幕府に文久の改革を実行させた島津久光は江戸を出て京都へ向かっていましたが、武蔵国橘樹郡生麦村(むさしのくにたちばなぐんなまむぎむら、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、馬に乗ったイギリス人の一行が久光の行列の前に立ちはだかりました。
大名行列(久光は藩主ではありませんが、実質上の最高権力者で同じ扱いとなる)が通り掛かった際には、道を譲って土下座するなどの礼を尽くして見送るのが通例なのですが、そのことを知らないイギリス人の一行は、馬に乗ったまま立往生してしまいました。
イギリス人による「無礼」な行為に怒りが爆発した薩摩藩士は一行に襲いかかり、一人を殺害するなどの乱暴に及びました。これを「生麦事件」といいます。
自ら攘夷を実行した長州藩に対して、偶発的な事件から結果として攘夷を行った薩摩藩でしたが、両藩ともその後に外国から報復されることになるのです。
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長州藩は三条実美(さんじょうさねとみ)らの急進派の公家と結んで朝廷に働きかけ、将軍の上洛(じょうらく、京都に入ること)と攘夷の決行とを幕府に対して強く迫りました。
進退窮(きわ)まった幕府は、やむを得ず文久3年旧暦5月10日(1863年6月25日)を期して攘夷を実行する旨を諸藩に命じました。ただし、攘夷に対する幕府の認識は横浜港の閉鎖を諸外国に通告することであり、軍事行動を目的とはしていませんでした。
ところが「攘夷=軍事行動」と思い込んでいた長州藩は、旧暦5月10日の当日に藩内の下関海峡を通過していた外国船を砲撃して、本当に攘夷を実行してしまいました。これを「長州藩外国船砲撃事件」といいます。
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だからこそ新たに京都守護職が必要となり、また京都守護職の保護を受けた、本来ならば下級武士や浪人などの集団に過ぎない新選組(しんせんぐみ)が京都において活躍する原因にもなったのです。幕府による平和ボケが意外なところにまで影響を及ぼしていたということになりますね。
ちなみに、松平容保が京都守護職に選ばれた理由は、会津藩の始祖(しそ)である保科正之(ほしなまさゆき)が残した「会津藩は将軍家を守護すべき存在である」という家訓(かくん、守るべきものとしてその家に伝わるいましめや教えのこと)があったからだとされています。容保が京都守護職を引き受けたことによって、会津藩は幕府と運命をともにすると同時に大きな悲劇を経験することになりました。
なお、文久の改革における政事総裁職は「政治」ではなく「政事(=政治上の事務のこと)」ですので注意が必要です。
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文久2(1862)年、島津久光は朝廷の勅使(ちょくし、天皇の使者のこと)とともに江戸へ向かい、幕政の改革を要求しました。この意向を受け、幕府は徳川慶喜(一橋慶喜)を将軍後見職(しょうぐんこうけいしょく)に、松平慶永を政事総裁職(せいじそうさいしょく)に、会津(あいづ)藩主の松平容保(まつだいらかたもり)を新設の京都守護職(きょうとしゅごしょく)に任じました。
この他、幕府は同時に参勤交代を三年に一回に縮小したり、大名の妻の帰国を認めたり、西洋式の軍制を採用したりしました。これらの改革は当時の年号から「文久の改革」と呼ばれています。
さて、これらの改革の中で特に不思議なのは京都守護職です。なぜなら、そもそも京都には京都所司代(きょうとしょしだい)という別の役職が存在していたからです。それなのに、なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。
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公武合体の象徴として、安藤は将軍徳川家茂の夫人に孝明天皇の妹君の和宮(かずのみや)を迎えることに成功しましたが、これは将軍が天皇の義理の弟になることを意味しており、かえって逆効果になってしまいました。
なぜなら、この図式は長幼(ちょうよう)の序(年長者と年少者の間にある一定の秩序のこと)から見て「弟たる幕府は兄の朝廷に従わなければならない」ことにつながってしまうからです。事実、この後幕府は朝廷から攘夷の実行を約束され、その対応に苦労することになりました。
また、家茂と和宮とのいわゆる政略結婚は尊王攘夷の強い反発をもたらし、安藤は文久2(1862)年旧暦1月に江戸城の坂下(さかした)門外で水戸藩の脱藩浪士らに襲われ負傷し、その後に老中を退きました。この事件を「坂下門外の変」といいます。
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特に橋本左内や吉田松陰らは若くして刑死するなど、安政の大獄によって攘夷派を中心とした多くの人材が失われるとともに、直弼による問答無用ともいうべき強権的な処置は結果として多くの人間の恨みを買ってしまいました。
安政7年旧暦3月3日(1860年3月24日)、春にしては珍しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門へと差し掛かった直弼の行列に対して水戸藩を脱藩した大勢の浪士らが襲いかかり、直弼を暗殺しました。この事件を「桜田門外の変」といいます。
最高権力者である大老が江戸城外で襲われ、しかも殺されるという大失態を演じてしまった幕府の威信がますます低下するとともに、自分の意見と対立する人間への「血の粛清(しゅくせい)」が半ば常識化してしまいました。
事実、この後明治維新を経て政情が安定するまでに、武力による実力行使を伴った血なまぐさい事件が日本国中で続発することになるのです。
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特に前水戸藩主の徳川斉昭や当時の水戸藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)、尾張(おわり)藩主の徳川慶勝(とくがわよしかつ)、越前藩主の松平慶永らは、江戸城への登城日でもなかったのに「押しかけ登城」を行い、直弼を激しく問いつめました。
しかし、直弼には直弼の言い分がありました。彼は開国という国家の存亡にかかわる重要な問題に対し、それまでの幕府の為政者たちが無責任に先送りしてきたツケを一気に払わされただけという立場でもあったのです。
加えて、条約反対派あるいは攘夷派が「外国人など我が国から追い出せばよい」と口先では威勢のいいことを言いながら、もし我が国が侵略されたらどうするのか、という問題に対しては口をつぐんで答えようともしないという有様も直弼を苛立(いらだ)たせていました。
反対派や攘夷派の余りもの無責任さに怒りが爆発した直弼は、幕府大老という自分の立場を活用して彼らに対する大粛清(だいしゅくせい)を行う決意を固めました。安政5(1858)年から6(1859)年にかけてのこれらの弾圧は「安政の大獄(たいごく)」と呼ばれています。
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薩摩藩主の島津斉彬や越前藩主の松平慶永らの有力な大名は、ペリーの来航以来混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきであると考えて、前水戸藩主の徳川斉昭の実子で御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の養子となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ、または「一橋慶喜」)を推していました。
一方、彦根藩主の井伊直弼などの譜代(ふだい)大名らは、将軍家定と血統が近いものの、まだ幼かった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推していました。慶喜を推す一派を「一橋派」、慶福を推す一派を「南紀(なんき)派」といいます。
一橋派と南紀派とが対立を続けていた安政5(1858)年に将軍家定が重態となると、南紀派の譜代大名らの後押しもあって井伊直弼が大老に就任しました。直弼は先述のとおり旧暦6月に勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)が下りないまま日米修好通商条約の締結を決断し、同月には次期将軍候補として徳川慶福を決定するなど、強権的な政治を行いました。
なお、慶福は名を「徳川家茂(とくがわいえもち)」と改め、家定の死を受けて同じ安政5(1858)年に13歳で14代将軍に就任しています。
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なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。
こうした流れを受けて、庶民の怒りは外国に対する反感となり、貿易を行っていた商人や我が国に在留(ざいりゅう)する外国人が襲(おそ)われるようになりました。例えば、万延元年旧暦12月(1861年1月)にはハリスの通訳でオランダ人のヒュースケンが江戸で暗殺されています。こうした外国人に対する襲撃(しゅうげき)は、そのまま攘夷運動の激化につながりました。
また、世相(せそう)の不安が農村では百姓一揆(いっき)の、都市では打ちこわしの多発を招き、これらに対応しきれない幕府の権威はますます下がっていきました。
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