また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占(し)めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業の発展をもうながし、チャイナで工場経営を行う紡績業、すなわち「在華紡(ざいかぼう)」の業績も上昇しました。
大戦景気によって工業生産額は約5倍に拡大し、大正8(1919)年には農業生産額を上回りました。また、工場労働者数は大正3(1914)年の約85万人から大正8(1919)年には約150万人にまで達し、重化学工業の発展に伴って男子労働者の数が大幅に増えました。
このように第一次世界大戦は我が国内に大きな影響をもたらしたのですが、戦争は必ずいつかは終わりを迎えるものです。それは大戦といえども例外ではなく、様々な需要を生み出した戦争が終われば、やがて我が国の景気が後退してしまうのは必然でもありました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎えることになりました。
特に、造船業や海運業は世界的な船舶不足もあって我が国は世界第3位の海運国となり、多くの「船成金(ふななりきん)」が生まれました。また鉄鋼業では、八幡(やはた)製鉄所の拡張や民間製鉄会社の設立が進んだほか、満鉄の鞍山(あんざん)製鉄所も設立されたことで、生産が飛躍的に増加しました。
また、これまでドイツからの輸入に頼っていた薬品・染料・肥料などの分野では、代わりに国産の化学工業が発達しました。輸入が途絶えたからといって決して慌(あわ)てることなく、国内の産業を活性化させて「ピンチをチャンスに変える」という芸当は、この頃からすでに我が国のお家芸だったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪を働いたりする行為は不法そのものでした。しかし、我が国はチャイナに攻撃を仕掛けることで大陸中が大混乱になり、その結果多くの日本人居留地や居留民が被害を受けることを恐れるあまり、協調外交を口実に一切の報復を行わなかったのです。
南京事件や漢口事件が起きたことで、日本国内においても幣原外相の「軟弱外交」に対する批判がようやく高まりましたが、当時は金融恐慌(きょうこう)などによって内政が大混乱となっており、チャイナによる度重なる租界襲撃に対して一切の報復を行わなかった我が国が、世界における信頼を失いつつあることにまで気が付いていませんでした。
「過ぎたる協調外交は結果として国を滅ぼしかねない」。これも歴史における大きな教訓ですが、実は幣原外交はこの2年後に復活して、我が国をさらなる混乱に巻き込んでしまうのです(詳しくはいずれ後述します)。
なお、南京事件や漢口事件はいずれも中国共産党の扇動によって起きたとされており、これらが蒋介石による上海クーデターにつながったといわれています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合がございますのでご留意ください。
①会場入り口に備え付けてある『消毒用アルコール』で手指を消毒してください。
②受講中は『マスク』着用を必須とします。
③『咳エチケット』をお守りください。
④風邪症状がある場合等は受講を慎重にご判断ください。咳・発熱などの一般的な風邪症状がある場合には、受講をお控えいただくようお願いいたします。
オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりますので、ご参照ください。また、準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは3日前(3月25日)の正午(午後0時)までとなりますのでご注意ください。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。

(クリックで拡大されます)
第83回黒田裕樹の歴史講座「江戸時代その5 ~激動の幕末~」
それまでの「鎖国」の状態から無理やり開国させられた江戸幕府が欧米列強から不平等条約を結ばされてから、わが国は半世紀以上の年月をかけて改正を実現しました。明治政府が歩んだ条約改正に至るまでの苦難の道のりを、いつもの黒田節で皆さんもたどっていきましょう。ご期待ください!
主催:株式会社スペック・正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:令和3年3月28日(日) 午後2時より
会場:シアターSPEC(株式会社スペック)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
※会場は「太融寺」交差点角の太融寺の隣、茶色いレンガ模様の9階建てのビルの8階です。1階に大阪商工信用金庫があります。ホワイティうめだの「泉の広場」M14出口を左側から出て、扇町通沿いに真っ直ぐ歩いてください。
参加費:金2,000円(税込・高校生以下は無料、その他学生割引あり)
※オンライン式講習会のお申し込みにおいて、レジュメを事前に郵送でご希望の場合は金2,500円(税込)になります。
オンライン式講習会のお申し込み締め切り:3月25日の正午(午後0時)まで
※対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
①まずはこちらのURLから「お申し込み」をクリックしてください。
https://rekishidojo.com/
②講座申込フォームに必要事項を記載のうえ、送信してください。折り返し、ご指定のメールアドレスに事務局からの案内メールが届きますので、それをご参照のうえ、24時間以内にPayPalまたは銀行振込で参加費をお支払いください。
③講座当日に使用するレジュメは、ご入金確認後にレジュメデータ(PDF)をメールにてお送りさせていただきます。なお、ご入金の確認が取れない方につきましては、キャンセル扱いとなりますのでご注意ください。
<当日ご準備いただくもの>
①カメラ&マイク機能搭載のパソコン
※スマートフォンのアプリからもご使用いただけますが、画質・音質に不具合が生じる可能性があります。スマートフォン以外のパソコンを使用されることを推奨いたします。
②歴史講座レジュメ
※レジュメにつきましては、ご入金後にメールにてレジュメデータ(PDF)をお送りさせていただきます。なお、レジュメの事前の郵送も承りますが、先述のとおり参加費が金500円追加となります。
<ZOOMの招待状について>
ZOOMでご参加いただくためには、事務局よりお送りさせていただく『招待状』よりご入室していただく必要があります。招待状につきましては、講座前日の午後4時以降にお送りします。
その他、ご不明な点がございましたら、ご遠慮なく下記の事務局にまでお問合せください。
<お問い合わせ先>
〒530-0051
大阪府大阪市北区太融寺町5-15梅田イーストビル8階
電話:050-3530-8995
メール:theaterspec@specgroup.jp
黒田裕樹の歴史講座事務局(株式会社スペック内)
追記を閉じる▲
幣原外相による外交は今日では「幣原外交」、あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が国の外交面での信頼を大きく損ねることになったのです。
先述したイギリス租界奪取事件においても、協調外交の姿勢を重視した幣原外相はイギリスからの出兵要請を無視しましたが、これに味をしめたチャイナの革命軍は同じ昭和2(1927)年3月に南京の我が国を含む外国領事館や居留民を襲撃し、これに怒ったイギリスとアメリカの軍艦が砲撃戦を行いました。これを「南京事件」といいます。
南京事件は在留の日本人が殺害されるなどの大きな被害をもたらしましたが、事を荒立てるのを嫌った幣原外相がチャイナに対して一切報復せずに固く「平和」を守ったため、その「弱腰」ぶりがさらなる悲劇をもたらすことになってしまいました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で、国民党内で共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。この事件は、今日では「上海クーデター」と呼ばれています。
上海クーデターの後に国民政府を立ち上げた蒋介石が共産党と対決する姿勢を明確に示したことで、第一次国共合作は事実上崩壊しました。蒋介石が率いた革命軍はその後も北伐に向けて進撃を続けましたが、チャイナにおける大きな混乱は、大陸に権益を持っていた世界各国に深刻な影響をもたらしていました。
上海クーデターより以前の1927(昭和2)年1月、当時は租界と呼ばれた外国人居留地であった漢口(かんこう)や九江(きゅうこう)が革命軍に次々と襲われ、多数のイギリス人が殺害されただけでなく、租界そのものを革命軍に奪われてしまうという事件が発生しました。これを「イギリス租界奪取事件」といいます。この非常事態に対して、イギリスは自国内で多数の軍隊を動員するとともに、かつての北清(ほくしん)事変にならって列強各国に出兵を要請しました。
しかし、我が国は「外交上の理由」でこの要請を拒否してしまうのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に何度も失敗していた孫文に対して言葉巧(たく)みに近づきました。
1923(大正12)年にコミンテルンのボロジンやヨッフェと次々に会談した孫文は、チャイナの全土統一のためにソ連の援助を受けることを決断し、翌1924(大正13)年に共産党と連携(れんけい)しました。これを「第一次国共合作」といいます。
しかし、この国共合作はコミンテルンが仕組んだ「巧妙な罠(わな)」でした。新たに孫文の顧問となったボロジンは、中国共産党を裏で操りながら国民党をも動かす地位を得たことで、彼の指示によって多くの共産党員が国民党内に流れ込み、国共合作後のチャイナの情勢に大きな影響を与えてしまうのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
もし海上から大砲や鉄砲などで対岸の陸地へ向かって発砲することができるようになれば、海で囲まれている我が国にとっては、日本列島のどこからでも狙(ねら)われるということにならないでしょうか。つまり、蒸気船の発明によって、我が国は「天然の防壁」どころか「どこからでも狙われる大変危険な国」になってしまったのです。
オランダも蒸気船の脅威(きょうい)が分かっていたからこそ、別の思惑があるとは考えられるものの、我が国に対して親切にも開国を勧告してきたのですが、そんなオランダに対して、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は世界情勢の認識の乏(とぼ)しさもあって勧告を無視してしまいました。
「鎖国は幕府の祖法であって変えることはできない」。間違った認識を言い続けることで、自身をも騙(だま)し、判断を誤る(今も行われているかもしれませんが)。こうした自家撞着(じかどうちゃく、同じ人の言動や文章が前後で食い違っていること)が、我が国最大の危機と幕府崩壊への序章になったのです。
なお、言うまでもないことですが、いわゆる「鎖国」を行ったのは徳川家康(とくがわいえやす)ではなく、よって幕府の「祖法」ではありません。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
大量の船を作ろうと思えば莫大(ばくだい)な資本が必要ですし、それだけの大きなエネルギーを使ってまでして我が国を攻めようにも、失敗した場合のリスクの大きさを考えれば二の足を踏んでしまうのが当然というものでした。
かくして、我が国は元寇(げんこう)などの一部の例外を除いて外国からの侵略を受けることがなく、特に江戸時代の初期に「鎖国」となってからは、平和な状態が続いたことで、いつしか我が国における防衛力も低下していきました。
実は、蒸気船の発明はこうした「天然の防壁」を簡単に打ち破るものだったのです。なぜでしょうか。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
西洋諸国の中で唯一我が国と貿易を行っていたオランダが開国を勧告するということは、自国の貿易の独占を失うことにもつながっていました。にもかかわらず開国を勧告した理由としては、仮に我が国が自主的に開国を行った後も、オランダとの縁(えにし)を忘れずに貿易上の友好な関係を続けてほしいという思惑があったのかもしれません。
オランダによる勧告の内容として注目すべきことは、開国を勧める理由として「蒸気船」が開発されたことを挙げていることでした。蒸気船は1807年にアメリカのフルトンが発明しましたが、このことが世界の歴史を、特に我が国の運命を大きく変えてしまったのです。
その理由は我が国が「海で囲まれている島国」だからですが、なぜだかお分かりでしょうか。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。