これに対し、ロシアは報復として翌文化9(1812)年に日本船を拿捕し、淡路島(あわじしま)の商人であった高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)らを抑留しました。
まさに「人質合戦」と化したことによって両国間の関係はさらに悪化しかけましたが、当時のロシアはヨーロッパでの戦争が続いていたことから、我が国を侵略するまでの意図がなかったこともあり、ゴローウニンと高田屋嘉兵衛とが捕虜(ほりょ)交換の形でそれぞれ帰国しました。
これら一連の流れは「ゴローウニン事件」と呼ばれていますが、この後の日露関係は修復へと向かい、幕府の直轄地となっていた蝦夷地も文政4(1821)年には松前藩に返還され、松前奉行は廃止されました。なお、高田屋嘉兵衛に関するエピソードは作家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)によって「菜の花の沖」という名で小説化され、テレビドラマ化もされています。
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幕府の冷酷な対応に態度を硬化させたロシアは、文化3(1806)年から文化4(1807)年にかけて樺太(からふと)や択捉島を攻撃しました。
ロシアの強硬な態度に驚いた幕府は、文化4(1807)年に蝦夷地をすべて直轄地として松前奉行に支配させ、東北の各藩にも沿岸の警備を命じました。
また、文化5(1808)年には間宮林蔵(まみやりんぞう)に樺太やその沿岸を探検させましたが、間宮は調査の結果、樺太が島であることを発見しました。我が国では間宮の功績を称(たた)える意味で、樺太とロシアの沿海州(えんかいしゅう)との間にある海峡(かいきょう)を「間宮海峡」と名付けています。
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ラクスマンの要求は、応対した松前(まつまえ)藩を通じて幕府に伝えられましたが、老中の松平定信は漂流民こそ受け取ったものの、通商に関しては鎖国を理由に聞く耳を持たず、どうしても通商を求めたいのであれば長崎へ行くようにと命令したうえで、長崎への入港許可証を与えました。
ラクスマンは許可証を受け取りましたが、長崎へは向かわずそのまま帰国しました。一方、ラクスマンの来航の事実を重く見た幕府は、蝦夷地や江戸湾の海防の強化を諸藩に命じたほか、定信の失脚後の寛政10(1798)年には近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)や最上徳内に択捉島(えとろふとう)などを調査させるとともに、翌寛政11(1799)年には東蝦夷地を幕府の直轄地としました。
なお、我が国に帰還した大黒屋光太夫に関するエピソードは、作家の井上靖(いのうえやすし)によって「おろしや国酔夢譚(こくすいむたん)」という長編小説に書き上げられ、映画化もされています。また、近藤や最上らは択捉島などを調査した際、択捉島に「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱を立て、日本領であることをアピールしています。
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1776年にアメリカがイギリスとの戦争を勝ち抜いて独立すると、19世紀には太平洋を目指して西部へと開拓し始めました。また、1789年にフランス革命が起きると、やがてナポレオンが登場して急速に勢力を拡大し、イギリスやロシアと激しい戦いを繰(く)り広げました。
一方、そんなイギリスやロシアはアジアへの進出をもくろみ、特にロシアはシベリアを植民地とした17世紀以降に南下を進め、18世紀末にはしきりに我が国の近海に出没するようになりました。ロシアの思惑(おもわく)に気付いた老中の田沼意次は、前回(第81回)の歴史講座で紹介したように蝦夷地の開発を試みるとともにロシアとの交易も視野に入れました。
もしこれが実現していれば、我が国は通史より半世紀以上も早く自主的に開国する可能性があったのですが、その後に意次が失脚したことによって夢に終わり、後を受けた松平定信の消極策によって、我が国は再び門戸(もんこ)を固く閉ざすようになってしまったのです。
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前夜から日の出を待って拝む日待(ひまち)や、十五夜など特定の月の出を待って拝む月待(つきまち)、あるいは十干十二支(じっかんじゅうにし)で60日に一度巡ってくる庚申(こうしん)の日に集まり、眠らずに徹夜して過ごす庚申講(こうしんこう)なども、人々の社交や娯楽として行われました。
幕末を迎える頃にはそれまでの幕藩体制の揺(ゆ)らぎが激しくなり、社会不安が増大しましたが、そんな世相(せそう)を反映するかのように民間から次々と新しい宗教が広まりました。
新たな宗教の例としては、井上正鉄(いのうえまさかね)の神道禊教(しんとうみそぎきょう)や黒住宗忠(くろずみむねただ)の黒住教、中山(なかやま)みきの天理教(てんりきょう)、川手文治郎(かわてぶんじろう)の金光教(こんこうきょう)などが挙げられ、それぞれ独自の信仰によって人々を説いて教団を組織し、後に教派神道(きょうはしんとう)と呼ばれるようになりました。
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寺社も人々の信仰を集め、修繕費や運営費を得るための目的も兼ねて縁日(えんにち)や富突(とみつき、いわゆる富くじのこと)が行われたり、秘仏(ひぶつ)を公開する開帳(かいちょう)が催されたりしました。
人々の生活に余裕が生まれたことで、湯治(とうじ)や物見遊山(ものみゆさん)などによる旅も盛んとなりました。中でも伊勢神宮や信濃(しなの、現在の長野県)の善光寺(ぜんこうじ)、讃岐(さぬき、現在の香川県)の金毘羅宮(こんぴらぐう)、下総(しもうさ、現在の千葉県)の成田不動などへの寺社参詣(さんけい)は信仰と結びついて定着し、特に伊勢神宮は「御蔭参(おかげまい)り」と呼ばれて周期的に大流行しました。
この他、いわゆる聖地や霊場を巡(めぐ)る西国三十三か所や四国八十八か所への巡礼(じゅんれい)も盛んとなりました。
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水戸藩では藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)によって「大日本史(だいにほんし)」の編纂(へんさん)が始められましたが、作業が進んでいくうちに、先述した「徳をもって世の中を治める王者(おうじゃ、天皇のこと)が権力に頼って支配する覇者(はしゃ、幕府のこと)にまさる」という思想につながったのです。
尊王論は後述する外国勢力の接近に対抗するために、外国人を実力行使によって排斥(はいせき)しようとする攘夷論と結びつくようになり、水戸学の世界でも藤田幽谷(ふじたゆうこく)・藤田東湖(ふじたとうこ)の父子や会沢正志斎(あいざわせいしさい)らによって尊王攘夷論が唱えられ、幕末の思想に重大な影響を与えました。
また、寛政の頃には高山彦九郎(たかやまひこくろう)が全国を旅して尊王思想を広めたり、蒲生君平(がもうくんぺい)が歴代天皇の御陵(ごりょう)を調査して「山陵志(さんりょうし)」を著したり、頼山陽(らいさんよう)が「日本外史(にほんがいし)」を著して南朝の忠臣を紹介したりしたことで、尊王思想は幕末の民間にまで広く浸透(しんとう)することになりました。
なお、蒲生君平はいわゆる「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」の名付け親でもあります。この他、先述した平田篤胤による復古神道も、全国の下級武士や豪農を中心として幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
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かくして、当初は幕府の支配に都合が良かった朱子学によって「将軍は天皇に臣従すべきである」とする尊王論が導き出されるという、何とも皮肉な現象が生まれていったのです。
18世紀後半になると、竹内式部(たけうちしきぶ)が京都で若い公家(くげ)たちに尊王論を説き、また山県大弐(やまがただいに)が「柳子新論(りゅうししんろん)」を著して江戸で尊王論を説きましたが、両者とも江戸幕府によって処罰されました。
なお、竹内式部が宝暦8(1758)年に告訴され、翌宝暦9(1759)年に幕府によって追放処分にされたのは「宝暦事件」、山県大弐が明和(めいわ)4(1767)年に死刑となったのは「明和事件」と呼ばれています。
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18世紀中頃に八戸(はちのへ)の医者であった安藤昌益(あんどうしょうえき)が「自然真営道(しぜんしんえいどう)」を著して、すべての人間が農耕で生計を立てる「自然の世」が理想であり、農作業とは無縁の武士が支配する社会や身分社会を否定しました。
昌益の存在が世に広まったのは明治時代になってからですが、その思想は共産主義や無政府主義の考えにも関連するとして幅広い支持を受けました。
この他、海保青陵(かいほせいりょう)は「稽古談(けいこだん)」を著して武士の商業軽視を批判し、藩で専売制を行うなどの重商主義の必要性を説きました。本多利明(ほんだとしあき)は西洋諸国との貿易の必要性を「西域(せいいき)物語」で説き、前回(第81回)の歴史講座で紹介したように田沼意次(たぬまおきつぐ)が蝦夷地(えどち、現在の北海道)を調査した際には、弟子の最上徳内(もがみとくない)を推薦(すいせん)しています。
また、佐藤信淵(さとうのぶひろ)は「経済要録(けいざいようろく)」を著して、積極的な海外進出による経済の振興を主張しました。
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このことから、洋学は主として医学や兵学、あるいは地理学などの実学(じつがく)としての性格を強めていきました。
幕末に海防論が叫ばれたころには、伊豆(いず、現在の静岡県など)の代官の江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん、別名を江川坦庵=えがわたんあん)が韮山(にらやま)に大砲を鋳造(ちゅうぞう)するための反射炉(はんしゃろ)を設けました。
また、開国論者の佐久間象山(さくましょうざん)は坦庵に学んで江戸で兵学を教え、先述した吉田松陰や勝海舟(かつかいしゅう)などの人材を育てています。
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