また、これも先述しましたが、講和会議以前の1915(大正4)年に我が国がチャイナに対して行った提案を袁世凱が「二十一箇条の要求」と捏造(ねつぞう)したばかりか、要求を受けいれた5月9日を「国恥(こくち)記念日」としたり、袁世凱亡き後の北京政府が西原借款(しゃっかん)によって我が国と癒着(ゆちゃく)した格好となったりしたことも、チャイナの国民の反発を招きました。
こうした流れの中で、1919(大正8)年5月4日に北京で学生を中心に行われたデモ行進をきっかけとして、チャイナの各地で学生・商人・労働者らによる激しい反日運動が起こりました。これを「五・四(ご・し)運動」といいます。
五・四運動は反日運動であるとともに、チャイナの国内におけるナショナリズムを高めた効果があったとされていますが、実は、同じ年に同じ東アジアで広がった事件も大きな影響を与えていました。
その事件とは、当時我が国が併合していた朝鮮で起きた「三・一(さん・いち)独立運動(または三・一事件、万歳事件)」のことです。
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