せっかく将軍になったというのに、長いあいだ政治の実権を持てなかった家斉でしたが、将軍にとってもう一つの重要な責務である「子孫を残す」ための時間には余裕があったことから、家斉は死去するまでに50人以上の子をもうけました。
やがて、文化(ぶんか)14(1817)年に松平信明が死去した頃から自分の思いどおりの政治を行えるようになった家斉は、水野忠成(みずのただあきら)を老中にして質の落とした貨幣を大量に流通させ、大奥の経費などを増大させました。
貨幣の質を落としたことで物価は上昇しましたが、同時に経済の活発化をもたらし、全体の金回りが良くなったことで好景気となり、後に「化政(かせい)文化」と呼ばれた華やかな文化が生まれることになりました。
天保8(1837)年、家斉は将軍の地位を子の徳川家慶(とくがわいえよし)に譲りましたが、その後も大御所として政治の実権を握り続けました。家斉が活躍した時代は、別名を「大御所時代」あるいは「大御所政治」と呼ばれています。
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