しかも定信は、主(あるじ)がいなくなった相良城を「石垣ひとつに至るまで」徹底的に破壊したのです。城というものは一度建てれば公有財産になりますから、普通はそんな無駄なことはしませんし、そもそも取り壊す費用も馬鹿になりません。
それなのに、なぜ定信はこんな暴挙を行ったのでしょうか。思い当たる理由としては、相良城が意次自身によって建てられた新しい城だったからであり、田沼家を追い出しただけでは飽(あ)き足らず、まさに「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」とばかりに意次の痕跡(こんせき)をこの世から抹消したかったからに違いありません。
定信は熱心な朱子学者でしたが、朱子学の由来は儒教にあります。すべてがそうであるとは限りませんが、儒教の信徒はネチネチとした陰湿で粘着質な性格を持っていることが多く、定信による信じられないような意趣返しもその一環だといえるのです。
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