では、そんな定信がなぜ田沼意次を押しのけて老中にまで出世できたのでしょうか。定信は白河藩の藩主でもありますが、多くの人々が被害を受けた天明の大飢饉の際に、白河藩では「一人の餓死者も出さなかった」ということで、その政治ぶりが評価されたのも原因の一つです。
確かに餓死者が出なかったことは素晴らしいことかもしれません。しかし、大飢饉が続いていたうえに、当時は鎖国(さこく)と呼ばれた状態で大きな輸出入もできなかったのですから、国全体のコメの生産量が少ないことに何ら変わりはないのです。
そんな中で、一つの藩だけがコメを集めまくったら、他の藩のコメの流通量がますます少なくなりはしないでしょうか。また、定信によるコメの一方的な買い占めを幕府が黙って許可したのでしょうか。
実は、定信の行為は「重大な法令違反」だったのです。
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