和紙の生産も、楮(こうぞ)を主原料とした流漉(ながしすき)の技術が普及したことで全国に拡大し、紙が安価で大量に入手できるようになったことで、学問や文化の発達に貢献しました。また紙の生産地の多くは藩の専売制となり、財政を助けました。
陶磁器では、肥前有田で有田焼と呼ばれた磁器が佐賀藩の保護のもとで生産され、長崎貿易における輸出品になったほか、尾張の瀬戸(せと)や美濃(みの)の多治見(たじみ)などでも生産されたことで、安価な陶磁器が量産されるようになりました。
醸造業(じょうぞうぎょう)では伏見(ふしみ)・灘(なだ)の酒や野田(のだ)・銚子(ちょうし)の醤油(しょうゆ)が有名となり、この他にも全国各地で作られた商品は、それぞれの地域に由来した特産品として重宝(ちょうほう)されました。
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鉱山業では、江戸時代初期には佐渡(さど)金山や生野(いくの)銀山・石見(いわみ)銀山などからの金銀の生産が最盛期を迎えましたが、17世紀後半になると産出量が激減し、やがて銅が採掘(さいくつ)の中心となりました。
銅は幕府が管轄する足尾(あしお)銅山や、大坂の町人である泉屋(いずみや)が経営した別子(べっし)銅山などで採掘され、長崎貿易における輸出品や、急増する貨幣の鋳造(ちゅうぞう)に用いられました。なお、泉屋は現代の住友(すみとも)につながっています。
この他、砂鉄(さてつ)を採集して足踏(あしぶ)み式の送風装置(そうち)を持つ炉(ろ)を使用した「たたら製鉄」が中国地方や東北地方を中心に行われ、生産された玉鋼(たまはがね)は商品として全国に普及し、農具や工具に加工されました。
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江戸時代の初期から土佐(とさ)や紀伊(きい)を中心に網(あみ)や銛(もり)を使用した捕鯨(ほげい)が行われ、捕れたクジラからつくられた鯨油(げいゆ)は灯油のほか害虫の駆除(くじょ)に使用されました。また中期以降には土佐で鰹漁(かつおりょう)が発達しました。
蝦夷地では昆布の漁獲量が増加したほか、イリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)・ホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)・フカノヒレ(サメのヒレを乾燥させたもの)を俵につめた俵物(たわらもの)が生産されました。俵物は清国の高級料理に使用され、宮廷の宴席(えんせき)に出されたため、17世紀末以降の長崎貿易において清国への主要な輸出品となりました。
製塩業では播磨(はりま)の赤穂(あこう)などの瀬戸内地方を中心に、高度な土木技術を必要とする入浜塩田(いりはまえんでん)が発達し、生産量が増大しました。
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肥料はそれまでの刈敷(かりしき)や下肥(しもごえ)のほかに、イワシを干して乾燥させた干鰯(ほしか)や、アブラナなどの農作物から油を搾(しぼ)り取った残渣(ざんさ、残りかすのこと)である油粕(あぶらかす)などが用いられ、これらの新しい肥料は農家がお金を出して購入したことから「金肥(きんぴ)」と呼ばれました。
この時代には農学も発達して、17世紀末に著(あらわ)された宮崎安貞(みやざきやすさだ)の「農業全書」など農書(のうしょ)が広く読まれました。
作物としては、米などの他に全国各地で「商品作物」が盛んに栽培(さいばい)され、農民の重要な副収入となりました。桑(くわ)・漆(うるし)・茶・楮(こうぞ)の「四木(しぼく)」や、麻(あさ)・藍(あい)・紅花(べにばな)の「三草(さんそう)」が代表的な商品作物です。
この他、それまでは輸入に頼っていた木綿(もめん)が国内で栽培されるようになったり、養蚕業(ようさんぎょう)が広がって生糸(きいと)の生産が盛んとなったりしました。特に生糸は幕末における重要な輸出品となるまでに発達しました。
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我が国は江戸幕府初期の17世紀初め頃には世界有数の金銀産出国となり、また鉱山における最新の技術や優れた道具は、そのまま治水(ちすい)や溜池(ためいけ)用水路などの開削(かいさく)に関する技術に転用されました。
これらによって河川敷(かせんじき)や海岸部において大規模な耕地化が可能となり、また平和な世の中となったことで人口が急増したことによる必要性から、全国で新田開発が積極的に行われたため、我が国の耕地面積は江戸時代初期の164万町歩(ちょうぶ、1町歩は約1ヘクタール)から、およそ100年後には297万町歩にまで増加しました。
なお、新田開発は当初は幕府や藩の主導で行われましたが、17世紀末頃からは有力な商人などの町人が資金を提供した町人請負新田が増えていきました。代表的な町人請負新田としては、現在も地名として残っている大坂の鴻池(こうのいけ)新田などがあります。
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次に、朝鮮通信使に対するこれまでの待遇が丁重(ていちょう)過ぎたと感じていた白石は、家宣の将軍就任の慶賀を目的に新たな通信使が我が国に派遣されてきた際に、その処遇を簡素化するとともに、それまでの朝鮮からの国書に「日本国大君殿下(たいくんでんか)」と書かれていたのを「日本国王」と改めさせました。
これらは、一国を代表する権力者である将軍の地位を明確にする意味が込められていましたが、同時に将軍と皇室との関係において、将軍家の地位を下げる結果ももたらしていました。なぜなら「国王」は「皇帝=天皇」よりも格下と考えることも可能だったからです。
さらに白石は「金の価値を落とした偽物を市中に出回らせることで不正な利益を上げることは許されない」という儒教的な観点から、勘定奉行に昇進していた荻原重秀を罷免(ひめん)すると、元禄小判を回収して金の含有率を元に戻した「正徳小判」を発行しましたが、貨幣の価値の上昇が必然的に物価の値下がりをもたらしたことでデフレーションを引き起こしてしまい、景気が悪化してしまいました。
これは、優秀な朱子学者だった白石ゆえに世の中の「生きた経済」が理解できなかったことによる失政でした。そして、このような「朱子学の考えを重視するゆえの経済の無知」は、この後も幕府が何度も繰り返すことになってしまうのです。
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新たな宮家は、当時の113代東山(ひがしやま)天皇の子である直仁親王(なおひとしんのう)によって立てられ、閑院宮家(かんいんのみやけ)と呼ばれましたが、実は設置から約半世紀後に皇室の直系の血が絶えてしまい、閑院宮家から119代の光格(こうかく)天皇が誕生しました。
そして、光格天皇の血統は、現代の天皇陛下から弟君の秋篠宮文仁親王殿下(あきしののみやふみひとしんのうでんか)を通じて、悠仁親王殿下(ひさひとしんのうでんか)までつながっています。
つまり、白石が閑院宮家の創設に助力したことによって、現代にも皇室の血統が脈々と受け継がれているのです。その意味においても、白石の功績は非常に大きいものがあったといえるでしょう。
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白石や間部は、家宣亡き後に4歳で跡を継いだ7代将軍の徳川家継(とくがわいえつぐ)にもそのまま仕えました。彼らによる政治を当時の代表的な元号から「正徳(しょうとく)の治(ち)」、または「正徳の政治」といいます。
ところで、家宣が将軍職を継いで真っ先に行ったことは生類憐みの令の「廃止」でした。一般的な歴史教科書には「廃止によって家宣が庶民の喝采(かっさい)を呼んだ」と書かれていることが多いですが、確かに食生活などにおける不満は高かったものの、20年以上に及んだ法令で世の中の価値観が一変したことで、その役目を終えたからこその廃止ともいうべきかもしれません。
さて、朱子学者であった白石は、文治政治をさらに推し進めるとともに、儒教の精神に基づく道徳論や権威に従って様々な政策を行いましたが、その結果は明暗がはっきりと分かれるものでした。
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天災はそれだけでは終わりませんでした。4年後の宝永(ほうえい)4(1707)年旧暦10月には、元禄大地震を上回るマグニチュード8.6と推定される大地震が発生し、さらにその影響があったからか、49日後の同年旧暦11月23日には富士山が大噴火を起こしてしまいました。
富士山の噴火によって、周辺地域は壊滅的な打撃を受けて飢饉(ききん)が発生し、また大量の火山灰が降り積もったことで、江戸も大きな被害を受けました。当時の大地震は「宝永大地震」、富士山の大噴火は「宝永大噴火」と呼ばれています。
立て続けに起きる大火事や天災などの不幸な偶然は、それまでの元禄文化の残像を吹き飛ばし、庶民はやり場のない怒りや悲しみを、時の為政者である綱吉にぶつけるようになり、また綱吉自身もショックが大きかったのか、約1年後の宝永6(1709)年旧暦1月に64歳でこの世を去ってしまいました。
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これらの声に対し、荻原重秀は「幕府が一両と認めるのであれば、たとえ瓦礫(がれき)であろうと一両の価値に変わりはない」と反論しましたが、重秀の考えは、瓦礫を紙切れに換えれば私たちが普段から使用している紙幣と全く同じことになります。
「お金の信用はその材質ではなく、裏打ちとなっているのは政府の信用である」という思想が20世紀の経済学者であるイギリスのケインズによって世界中に広まりましたが、それより200年以上も早く実践(じっせん)していた重秀の先見性に対して、私たちはただただ脱帽するばかりですね。
このように、綱吉が次々と打ち出した政策は、人々の意識を「人命を尊重する思いやりの精神」に改めるとともに、経済が上向いて好景気となり、元禄文化の全盛をもたらしましたが、綱吉の治世の晩年になると、彼に責任を押し付けるにはあまりにも酷(こく)な「アクシデント」が立て続けに起きてしまったのです。
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