これに対し、幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣しましたが上手くいかず、板倉は翌寛永15(1638)年の旧暦元日に総攻撃をかけた後に討死しました。幕府は老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たに派遣して、12万以上の軍勢で陸と海から原城を取り囲みました。
信綱は、オランダに頼んで大砲を原城めがけて砲撃しましたが、外国人の助けを借りることへの批判が高まって、すぐに中止されました。しかし、原城に立てこもった一揆勢にとっては、頼りにしていたキリスト教(=カトリック)のポルトガルからの救援が来ないどころか、プロテスタントのオランダが攻撃を仕掛けてきたことで、心理的に大きな影響を与えたのではないかと考えられています。
さて、先の総攻撃で、板倉など4,000人以上の死傷者を出した幕府側は、一揆勢に対して兵糧攻めの作戦に出ました。長引く戦いで兵糧や弾薬が尽きた一揆勢は、次第に苦しくなりました。
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