これは、徳川家が以後も将軍職を世襲(せしゅう)することを天下に示すためであり、豊臣家への大きな牽制(けんせい)となりました。家康は駿府(すんぷ、現在の静岡)に移りましたが、前の将軍を意味する大御所(おおごしょ)として政治の実権を握り続けました。
やがて関ヶ原の戦いから10年以上が経過して、豊臣家恩顧(おんこ)の大名が次々と死亡する一方で、秀頼が成人して将来の徳川家に悪い影響をもたらすと判断した家康は、それまでの律義者の仮面を脱ぎ捨てて、なりふり構わぬ姿勢で豊臣家を追いつめました。
慶長19(1614)年、秀頼は家康の勧めで秀吉ゆかりの京都の方広寺(ほうこうじ)を再建し、新たに梵鐘(ぼんしょう)をつくったのですが、その銘文(めいぶん)に記載された文字が、その後の豊臣家の運命を暗転させることになりました。
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