となれば、商人もいつかはコメを売らなければなりませんし、幕府や藩も備蓄米をいつまでも貯め込めませんから、いずれは処分しなければいけません。では、いつ手放せば良いのでしょうか。
この当時の農民は、先述した国役や伝馬役など、農作業以外にも様々な雑務に追われていました。これらはタダで働かされるのではなく、ちゃんと報酬が与えられていたのですが、それらはカネの他にコメで支払われていました。
つまり、農民にとっては、自分で収穫したコメを買い戻すという煩(わずら)わしさはあったものの、最終的には自分たちもコメを食べることによって、一年に収穫されたコメがすべて消費されたことになりますし、こうでないと辻褄(つじつま)が合わなくなるのです。
さて、農民が貧しくてコメを食べる機会がほとんどなかったという考えは間違いであったことが明らかになりましたが、江戸時代の農民は、私たちの想像以上に豊かだった可能性が高いという真実を皆さんはご存知でしょうか。
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一般的な歴史教科書の記述に見られる江戸時代の農民の暮らしぶりは上記のとおりですが、これらは本当のことでしょうか。この謎を探るためにも、まずは当時の人口の比率やコメに関する実情から考えてみましょう。
江戸時代の人口のうち、農民は実に8割以上を占(し)めていました。残り2割未満が武士や町人などです。この場合、通常の年貢率とされる「五公五民」が適用されれば、収穫のうち半分の5割が農民の口に入らなかったとすると、2割に満たない武士や町人が5割の米を食べていたことになりますよね。
武士や町人、あるいは農民という身分の違いがあっても、人間の胃袋の大きさに違いがあるはずがないのですから、上記の理屈はどう考えてもあり得ないのです。だとすれば、残りのコメはどこへ消えたのでしょうか。ちなみに、この頃の我が国はいわゆる「鎖国(さこく)」と呼ばれる状況でした(詳細は後述します)から、コメの輸出も考えられません。
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この禁令によって、農民が土地を捨てて離れるのを防ごうとしましたが、実際には「質入れ」というかたちで田畑は売買されていました。また、延宝元(1673)年には分地制限令(ぶんちせいげんれい)を出して、田畑の分割相続を制限し、耕地の細分化によって農民が没落するのを防ごうとしました。
また、五穀(ごこく)と呼ばれた米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆以外のたばこや木綿(もめん)、菜種(なたね)などの商品作物(しょうひんさくもつ)の自由な栽培(さいばい)を禁止する田畑勝手作(でんぱたかってづくり)の禁令を出しましたが、やがて農民の間にも貨幣経済が浸透(しんとう)し、儲(もう)かる商品作物の栽培が盛んとなると守られなくなりました。
この他、寛永19(1642)年頃に寛永の大飢饉(だいききん)が起きた後に、農民の暮らしに細かな指示を与える目的で、慶安(けいあん)2(1649)年に慶安の御触書(おふれがき)が出されるなど、幕府は農民に対してあれこれと細かい規定を設けていました。なお、慶安の御触書については、近年の研究でその存在が疑問視されています。
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例えば、江戸幕府の初期においては「七公三民」という厳しい税率となりましたが、これは江戸の町の開発や各地の交通の整備などのインフラのために使用されました。やがて開発が一段落すると減税が始まり、幕領では一説によれば「三公七民」以下にまで落ち込んだとされています。
年貢率に関しては、その年の収穫(しゅうかく)に応じて決める検見法(けみほう)と、豊作や凶作に関係なく一定の期間に同じ税率を続ける定免法(じょうめんほう)がありました。
なお、年貢の種類としては、本百姓が所有する田畑や屋敷に課せられた本途物成(ほんとものなり、別名を本年貢=ほんねんぐ)の他に山林などからの収益にかけられる小物成(こものなり)、石高を規準として村ごとに賦課(ふか)される高掛物(たかがかりもの)、一国単位で課せられる河川の土木工事での労働である国役(くにやく)、街道付近の農村で宿場(しゅくば)に人馬を差し出す伝馬役(てんまやく、別名を助郷役=すけごうやく)などがありました。
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村の運営は村法(そんぽう、別名を村掟=むらおきて)に基づいて行われ、村の秩序を乱す村民に対しては村八分(むらはちぶ)などの制裁を加えました。なお「八分」とは、火事と葬儀(そうぎ)の二つ、すなわち「二分」以外の残り「八分」の関わりを拒否したことが由来とされています。
幕府や諸藩は、こうした村の自治組織を頼りに年貢の納入や割り当てを実施しました。これを村請制(むらうけせい)と呼び、村民は数戸(すうこ)の農家で五人組(ごにんぐみ)に編成され、年貢の納入あるいはキリシタンや犯罪などを監視して連帯責任を負うのみならず、相互に助け合う機能も果たしました。
村内にはいくつかの階層が存在し、検地帳(けんちちょう)に登録されて高請地(たかうけち)と呼ばれた田畑の耕作権を持ち、年貢を負担して村政に参加する本百姓(ほんびゃくしょう、別名を高持百姓=たかもちひゃくしょう)や、田畑を借りて小作(こさく)を営む水呑百姓(みずのみひゃくしょう)、本百姓に従属する名子(なご)・被官(ひかん)などに分かれていました。
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長い戦国時代が終わって世の中が平和になったことで、17世紀に入ってから人口が急増し、それに伴って全国各地で新田開発が急速に進みました。これによって、17世紀末の我が国の人口は約2,700万人に達して100年前の2倍以上となり、村の数も全国で6万3,000余りまで増加しています。
村の種類としては、農業を中心とする農村を主体として漁村や山村(さんそん)、あるいは定期市などが行われて都市化した在郷町(ざいごうちょう)などがあり、その行政は名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)の村方三役(むらかたさんやく)によって運営されました。
このうち名主は村の長であり、村内の由緒(ゆいしょ)ある地主が世襲することが多く、主に年貢の管理や治安維持にあたりました。なお、名主という呼び方は主に東日本で使用され、西日本では庄屋(しょうや)、東北・北陸・九州地方では肝煎(きもいり)と呼ばれました。
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寺院にとっても、周辺の住民が檀家となることで信者数が固定され、また幕府の保護を受けて経済的な安定を得ることができましたが、それは同時に、これまでのような熱心な布教活動が不要となったことで、仏教の本来の任務に対する情熱を失わせる結果をもたらしました。
このような流れを受け継いだことで、我が国では国民の宗教に対する意識が低下した結果、いわゆる「無神論者(むしんろんしゃ)」が増えており、日本人の宗教観のなさや宗教に関する無関心さが、宗教を重んじる外国人との間でトラブルを引き起こすなど国内外で問題となっています。
また、政教分離を強調するあまり、我が国古来の風習である「神道との関わり」のすべてが否定される傾向が見られ、内閣総理大臣や知事、市長などが公人(こうじん)の立場で神社に参拝したり、あるいは玉ぐし料を支出したりすることなどが憲法違反の疑いがあるとみなされています。
政教分離に至る歴史の重みを現代に生きる私たちがしっかりと受け止めるのみならず、日本人として当然に持つべき宗教観の育成も、我が国にとって重要な課題であると私は思います。そのためにも、宗教に対する知識や理解を深める一方で、杓子(しゃくし)定規な解釈で宗教との関わりを一切断(た)ったりすることがないよう、私たちは心掛けるべきではないでしょうか。
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そんな宗教勢力に対して、焼討ちや反対勢力の皆殺しなどの思い切った手法で一掃(いっそう)したのが織田信長であり、豊臣秀吉もその政策を受け継ぎました。家康も二人にならって政教分離を進め、その遺志を継いだ江戸幕府によって「寺請制度」として完成したのです。
先述のとおり、寺請制度によって国民は必ずどこかの檀家にならねばならず、また離脱する自由も認められなくなった一方で、寺院側はそれこそ「何もしなくても」檀家の参詣や法要、あるいは付け届けで生計が立つようになりました。一見すれば「寺院が住民を支配している制度」ですが、その裏で国家権力が寺院に「権益」を与えて逆に統制することで、宗教が政治に関わる必要を一切なくしてしまったのです。
かくして、我が国では宗教が政治に関わることがいつしか「あり得ない」こととなり、政教分離の原則が完全に定着しました。そして、これらによる恩恵あるいは影響は、現代においてもなお続いているのです。
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これは、権力者側から見れば国家による統制を受けないどころか、国家権力そのものを認めないという危険な思想になります。このため、日蓮宗の不受不施派はカトリックと同様に幕府の厳しい弾圧を受け、江戸時代にはカトリックとともに禁止されてしまったのです。
ところで、これまでに紹介した寺請制度は、幕府が禁教とした宗派を信仰させないようにするという宗教弾圧の性格を強く持っていましたが、それと同時に現代にまでつながる大きな恩恵となった重要な側面も持っていました。
それは、我が国における「政教分離の原則」の完全なる定着です。
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この制度によって、国民は必ず周辺のどこかの寺院の檀家(だんか)にならねばならず、寺院への参詣(さんけい)や父祖(ふそ)の法要、あるいは付け届けを義務付けられ、これらに応じなければキリシタンとみなされるようになってしまいました。
檀家として登録された国民は原則として離脱を許されず、また婚姻や転居の際には所属する檀那寺(だんなでら)の証明書である寺請証文(てらうけしょうもん)が必要とされました。このように、すべての国民が信仰する宗教を幕府が把握(はあく)することで、カトリックの禁止を徹底させたのです。なお、寺請制度は別名を「檀家制度」あるいは「寺檀(じだん)制度」とも呼ばれています。
ところで、この頃までにカトリック以外にも幕府によって禁止とされた宗教があることを皆さんはご存知でしょうか。それは日蓮宗(にちれんしゅう)の不受不施派(ふじゅふせは)です。
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