しかし、間もなく日本社会党内部で対立が生じました。片山潜らが議会を通じて社会主義政策を達成すべきとする議会政策派だったのに対して、懲役後の渡米の際に無政府主義の影響を受けて帰国した幸徳秋水らが直接行動を主張したのです。
やがて幸徳らの直接行動派が優位になると、事態を重く見た政府は明治40(1907)年に治安警察法違反を理由として党の解散を命じました。また、翌明治41(1908)年に開かれた社会主義者の集会において、場外に「無政府共産」などと白抜きにした赤旗が翻(ひるがえ)っていたのを奪おうとする警察と群衆とがもみ合う事件が起き、堺利彦らが検挙されました。これを赤旗事件といいます。
赤旗事件の責任を取って第一次西園寺内閣は総辞職し、第二次桂太郎(かつらたろう)内閣が成立しましたが、社会主義者による度重なる反政府運動や、直接行動を主張する幸徳に対する政府の監視の目がこれまで以上に厳しく光るようになっていきました。
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