しかし、政府は対策に苦慮(くりょ)することになりました。田中の主張どおりに銅山での採掘を停止すれば、貴重な輸出品が失われるだけでなく、国内の生産力も低下し、全国の商工業における深刻な影響が避けられないからです。まさに「あちらを立てればこちらが立たず」の状態となった政府は、結局、銅山での操業をやめさせることができませんでした。
やがて鉱毒事件が全国に知られるようになると、自身の行動が「選挙対策」と思われることを慮(おもんぱか)った田中は議員を辞職して問題に取り組み続け、明治34(1901)年の帝国議会開院式当日に明治天皇に直訴(じきそ)しましたが、失敗に終わりました。
しかし、田中の直訴によって世論が一気に盛り上がったこともあり、政府は操業を続行する代わりに、付近の谷中村(やなかむら)に巨大な遊水池(ゆうすいち)をつくって渡良瀬川の洪水対策を行うことにしましたが、工事によって谷中村は水没して廃村となってしまうため、田中は谷中村に残って最後まで反対し続けました。
足尾鉱毒事件は我が国初期の公害問題とされていますが、当時はそこまでの観念を政府も国民も持っておらず、また国家の繁栄との両立を図らねばならないという難しい命題がありました。最終的には農村の犠牲という厳しい結果となりましたが、公害対策が当然とされる現代からの視点のみで断罪するだけでは、この事件の真実は見えてこないのではないでしょうか。
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