清盛と頼朝の例からわかるように、当時の多くの国民の願いをかなえるといった「明確なビジョン」を持ってこそ、初めて天下取りへの道が開けるのですが、信長と光秀の場合はどうだったでしょうか。
本能寺の変が起きる10年以上も前に、信長は美濃を攻略した段階で自身の印判に「天下布武(てんかふぶ)」と記していました。天下布武とは「天下に武を布(し)く」、すなわち「武力によって天下を支配する」という意味が込められており、自分の最終目的が天下統一であることを高らかに宣言したのです。
その他にも早くから兵農分離を行ったり、徹底した城下町の建設や、いわゆる「楽市楽座」の政策を行ったりするなど、天下取りに向けての「明確なビジョン」を描き、力強く我が道を歩んだ信長のような行動に対して、光秀の半生を振り返った際に、彼が「信長の後継者」として同じような政策を実行できたとは到底思えません。
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