そう判断した政府は、大逆事件の判決が出た年と同じ明治44(1911)年に工場法を制定し、12歳未満の雇用の禁止や、労働時間12時間あるいは月2回の休日などを定めました。
しかし、15人未満の工場は適用外とされるなどの不備があったほか、使用者たる資本家の反対を受けて、工場法の実施が大正5(1916)年まで待たなければならなかったなど、労働者の保護は不十分なものでした。
もっとも、当時の世界で社会権が初めて憲法に明記されたのが1919(大正8)年にドイツで制定されたワイマール憲法ですから、工場法の中途半端さにも「歴史の流れ」が存在しているといえます。
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ところで、大逆事件の真相に関しては、幸徳がどこまで天皇暗殺にかかわっていたのかなど不明な点も多く、政府による捏造(ねつぞう)ではないかという見方もあるようです。
ただ、当時の政府(第二次桂内閣)からしてみれば、前任者(第一次西園寺内閣)が社会主義に寛容だったことで事態を深刻化させてしまったことへの反省や、かねてより無政府主義や直接行動を主張してきた幸徳の言動に対する強い警戒感があったところへ「天皇暗殺」という情報が飛び込んで、一気に疑心暗鬼(ぎしんあんき)になってしまったという背景も存在します。
大逆事件を「捏造」と決めつけて、現代の価値観のみで当時の政府を激しく非難するのは容易(たやす)いことですが、その背景にある「大きな歴史の流れ」も同時に理解しないと、当時の最も重要な視点を見逃してしまうことにはならないでしょうか。
なお、大逆事件以後、第一次世界大戦を迎えるまで、社会主義は「冬の時代」を過ごすことになったほか、事件をきっかけとして、警視庁内に特別高等警察(=特高)が置かれるようになりました。
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しかし、無政府主義者の運動は思ったよりも伸び悩みました。産業革命によって我が国にも労働者階級と資産階級との貧富の差が生じつつありましたが、そもそも我が国には「天皇陛下の前では全員が平等である」という国民の根強い思いがあったことや、無政府主義の長所をいくら訴えたところで、従来の体制を打破する目的で話題がひとたび皇室に触れると、相手の多くが耳を傾けなくなったからです。
このため、幸徳の周辺では、いつしか天皇を害して国民の崇敬(すうけい)の念を打ち破ることで社会主義(=無政府主義)を達成しようという考えがまかり通るようになり、実際に明治天皇を暗殺するための爆弾が製作されました。
しかし、彼らの動きはやがて警察の知るところとなり、明治43(1910)年に幸徳をはじめとして多数の社会主義者が検挙されました。これを「大逆(たいぎゃく)事件」といいます。
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しかし、間もなく日本社会党内部で対立が生じました。片山潜らが議会を通じて社会主義政策を達成すべきとする議会政策派だったのに対して、懲役後の渡米の際に無政府主義の影響を受けて帰国した幸徳秋水らが直接行動を主張したのです。
やがて幸徳らの直接行動派が優位になると、事態を重く見た政府は明治40(1907)年に治安警察法違反を理由として党の解散を命じました。また、翌明治41(1908)年に開かれた社会主義者の集会において、場外に「無政府共産」などと白抜きにした赤旗が翻(ひるがえ)っていたのを奪おうとする警察と群衆とがもみ合う事件が起き、堺利彦らが検挙されました。これを赤旗事件といいます。
赤旗事件の責任を取って第一次西園寺内閣は総辞職し、第二次桂太郎(かつらたろう)内閣が成立しましたが、社会主義者による度重なる反政府運動や、直接行動を主張する幸徳に対する政府の監視の目がこれまで以上に厳しく光るようになっていきました。
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その後、日露の対立が深まり戦争の可能性が高まると、黒岩涙香(くろいわるいこう)が発行していた新聞「萬朝報(よろずちょうほう)」が、内村鑑三(うちむらかんぞう)や幸徳秋水、堺利彦(さかいとしひこ)といったキリスト教徒や社会主義者に執筆させて非戦論を唱えました。
しかし、後に黒岩が主戦論に転じたことで非戦論を唱えていた人々が退社すると、堺や幸徳ら社会主義者を中心として明治36(1903)年に平民社を結成し、平民新聞を発刊して非戦論を引き続き展開しました。
平民新聞は日露戦争中も非戦論を唱え続けましたが、政府はこれらの動きを当初は放置していました。しかし、マルクスとエンゲルスによって書かれた「共産党宣言」の翻訳(ほんやく)を掲載(けいさい)すると、平民新聞は発禁処分となり、平民社が解散させられるとともに幸徳自身も懲役刑に処せられました。
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特に、マルクスによる「貧富の差を憎むとともに、私有財産制をやめて資本を人民で共有する」という共産主義の考えは、当時プロレタリアートと呼ばれた賃金労働者の人々から熱烈な支持を受けました。
そもそもヨーロッパでは、長い歴史の中で王族や貴族、あるいは騎士や商人など、ほんの一握りの富裕層と、9割以上の農民ら貧民層との激しい貧富の差がありましたが、貧しい人々が多過ぎたことで、かえって平等に映っていました。
それが、産業革命で新たに収入を得た中産階級(=ブルジョワジー)が増え、富裕層と貧民層との割合が4:6あたりまで縮まったことで、それまで目立たなかった貧富の差が、プロレタリアートを中心に強烈に意識されるようになってしまったのです。
マルクスの言葉は貧しい人々の耳に心地よく響くとともに、彼らの富裕層への嫉妬心(しっとしん)をかきたてました。この流れは、やがて19世紀から20世紀にかけて大きな歴史のうねりを起こし、ついには人類史上初の共産主義国家を誕生させてしまうのです。
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そんな中、アメリカの労働運動を学んだ高野房太郎(たかのふさたろう)や片山潜(かたやません)らが、帰国後の明治30(1897)年に労働組合期成会を結成して、労働運動の指導や労働組合の結成に力を注ぎました。
これらの動きを警戒した第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣は、明治33(1900)年に治安警察法を制定し、結社や政治的集会などを行う際には事前の警察への届出を必要とするなど、労働者の団結権やストライキ権を制限しました。
かくして、我が国でも労働運動が本格的に展開し始めましたが、やがては労働者の生活を全く別の観点から擁護する運動も同時に行われるようになりました。当時の世界中で芽生えつつあった「社会主義」のことです。
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しかし、政府は対策に苦慮(くりょ)することになりました。田中の主張どおりに銅山での採掘を停止すれば、貴重な輸出品が失われるだけでなく、国内の生産力も低下し、全国の商工業における深刻な影響が避けられないからです。まさに「あちらを立てればこちらが立たず」の状態となった政府は、結局、銅山での操業をやめさせることができませんでした。
やがて鉱毒事件が全国に知られるようになると、自身の行動が「選挙対策」と思われることを慮(おもんぱか)った田中は議員を辞職して問題に取り組み続け、明治34(1901)年の帝国議会開院式当日に明治天皇に直訴(じきそ)しましたが、失敗に終わりました。
しかし、田中の直訴によって世論が一気に盛り上がったこともあり、政府は操業を続行する代わりに、付近の谷中村(やなかむら)に巨大な遊水池(ゆうすいち)をつくって渡良瀬川の洪水対策を行うことにしましたが、工事によって谷中村は水没して廃村となってしまうため、田中は谷中村に残って最後まで反対し続けました。
足尾鉱毒事件は我が国初期の公害問題とされていますが、当時はそこまでの観念を政府も国民も持っておらず、また国家の繁栄との両立を図らねばならないという難しい命題がありました。最終的には農村の犠牲という厳しい結果となりましたが、公害対策が当然とされる現代からの視点のみで断罪するだけでは、この事件の真実は見えてこないのではないでしょうか。
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しかし、鉱山での肉体労働が著しく体力を消耗(しょうもう)するのみならず、副産物として発生する鉱毒にも長年悩まされ続けました。もし鉱毒がそのまま河川に流れ込めば、田畑や飲み水など環境に対する大きな被害が避けられません。
古河財閥の創始者として知られる古河市兵衛(ふるかわいちべえ)が経営していた栃木県の足尾(あしお)銅山は、明治10年代に大きな鉱脈が発見されたほか、西洋の最新技術を導入したこともあって、我が国の銅の産出の約4分の1を占めるまでに急成長しました。
しかし、銅の生産の増加は大量の鉱毒の発生を必然的にもたらし、流れ出た鉱毒が渡良瀬川(わたらせがわ)を汚染して、付近の農業や漁業に深刻な被害を与えるようになりました。いわゆる「足尾鉱毒事件」のことです。
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また、同じ明治33(1900)年の調査によって労働者の88%が女性であったことが分かっていますが、当時は女工(じょこう)、または工女(こうじょ)と呼ばれた女子労働者の多くは、家計を助けるために出稼ぎにきた農民出身の若い女性で、低賃金のうえ過酷な長時間労働を続けていました。
一方、男子労働者は鉱山業や運輸業など肉体労働を強(し)いられる環境で多数が働かされましたが、こうした当時の労働者の厳しい生活ぶりは、明治21(1888)年に三菱が経営する高島炭鉱での労働者の実情を暴露(ばくろ)した雑誌「日本人」や、明治32(1899)年刊行の「日本之下層社会(にほんのかそうしゃかい)」、明治36(1903)年刊行の「職工事情(しょっこうじじょう)」などで明らかになりました。
なお、こうした賃金労働者の境遇は、我が国だけでなく当時の世界の多くの資本主義国家が同様の問題を抱えており、20世紀に入ってから、国家が国民に人間らしい生活を保障する「社会権」という新たな概念が生まれています。
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