清盛が活躍する以前から各地で武士が誕生し、その武力を高めることによって地方を中心に武士が世の中を支えるようになりましたが、そんな彼らには大きな悩みがありました。
平安時代の頃までには、それまでの公地公民の原則が完全に崩壊して、荘園制度が全盛期を迎えていましたが、この制度には大きな欠陥がありました。それは、荘園の所有が上流貴族や寺社のみに認められていたということです。
実際に田畑を耕(たがや)しているのは他ならぬ武士たちなのですが、朝廷は彼らの所有を認めようとしませんでした。困った武士たちは、仕方なく摂関家などの有力者に土地の名義を移し、自らは「管理人」の立場となりましたが、これほど不安定な制度はありません。
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通常であれば、それまでの軍功を惜しんで立ち往生するところを、自分の生命のほうが大事と冷静に判断した信長の的確な判断でした。後に天下を取った豊臣秀吉が、信長を評して「兵5,000人のうち4,900人が戦死しても、残りの100人の中に信長公はきっとおられる」と語っています。
「逃げ上手」であるうえに、諜報(ちょうほう)、いわゆるスパイの能力も抜きん出ていた信長ですから、自己の暗殺計画が立てられていれば、必ず事前に察知して逃げおおせた可能性が極めて高いと考えられます。
だからこそ、光秀が信長の暗殺を事前に計画していなかったうえに、いくつもの偶然が重なったことで単独で行動したことによって、光秀は信長に気付かれず、また逃げられることもなく討ち果たすことが初めて可能となったのです。
かくして、まさに「魔が差した」ゆえの「単独行動」で本能寺の変を起こした光秀でしたが、そんな彼にはもう一つの「致命的な欠陥」がありました。それは、光秀は信長のような「天下統一に向けての明確なビジョン」を持ち得なかったということです。
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信忠には京都を脱出して岐阜や大坂に向かい、父親の仇を討てるチャンスが実はあったのです。しかし、父親の救援などに時間をとられているうちに光秀軍に攻められてしまい、最期には逃げ切れずに自害しました。
信忠を生かしておいては、せっかく信長を倒しても光秀の天下取りに支障が出るのは必至ですし、何よりも黒幕が存在していれば、信忠の寝所を囲まないという大失態を光秀にさせるはずがありません。この点からも、本能寺の変は「光秀の単独犯行」と断定できるのです。
さらには、仮に黒幕がいたとして、事前に信長の暗殺が計画されたとすれば、おそらく本能寺の変は実現しなかったと考えられます。なぜなら、信長という人物は稀代(きだい)の「逃げ上手」だからです。
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細川藤孝・忠興父子にせよ、筒井順慶にせよ、彼らが動かなかったのには大きな理由がありました。それは、本能寺の変が「光秀自身によって単独で行われた」からです。
本能寺の変については、昔からいわゆる「黒幕」の存在が有力視されてきました。前述の羽柴秀吉や徳川家康(とくがわいえやす)、前将軍の足利義昭や朝廷、中にはカトリックのイエズス会の存在を挙げる人もいますが、私はこれらの「黒幕」がいたとは考えてはおりません。
もし黒幕の存在があれば、例えば光秀が細川藤孝・忠興父子に送った書状の中でその名前を書くことによって、細川父子に味方につくように説得できたかもしれませんし、また前述の毛利家に対しても、黒幕の存在を事前にほのめかして秀吉軍を釘付けにできるように依頼できたはずです。もしこれらが実現していれば、光秀がわずか10日余りで討たれてしまうようなこともなかったでしょう。
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かくして信長を討ち取り、天下取りに名を挙げた光秀でしたが、その後の展望については現代でも不明のままです。わずか10日余りで死んでしまったゆえの事情もありますが、それ以上に、彼にとっては「身内」ともいえる武将の裏切りが大きく響きました。
光秀には先述の細川藤孝という親友がいました。藤孝の息子である細川忠興(ほそかわただおき)は、光秀の娘である珠(たま、別名を「ガラシャ」)を嫁に迎えており、光秀は藤孝が当然自分の味方をしてくれるものと信じていました。
しかし、光秀の期待に反して藤孝・忠興父子は光秀の誘いを断り、藤孝は髪を切って出家し、忠興は珠を領国内に閉じ込めてしまったのです。驚いた光秀は自筆の書状で説得しましたが、受けいれられませんでした。
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当時の光秀は信長の命令で秀吉の毛利家征伐の先導を任され、少なくとも一万数千人の軍勢を率いて領国の丹波から出陣していました。丹波から中国地方に向かおうとすれば、その途中で京都を通過したとしても決しておかしくはありません。
しかし、一万を超える軍勢が京都に入れば、信長もすぐに気付いて警戒を強めたと考えたほうが自然ですが、現実にはそうはなりませんでした。その理由として「二つ目の偶然」があるのです。
本能寺の変が起きたのは天正10(1582)年旧暦6月1日から2日にかけての深夜ですが、当日は「新月」でした。この日の月(つき)は太陽と同じ方向にあり、地球に暗い半面を向けるので、全く見えません。要するに当日は「闇夜」であったことから、夜陰(やいん)に乗じて光秀が本能寺の近くまで兵を動かすことが可能だったのです。
ですが、信長も歴戦の強者(つわもの)です。不意を突かれても光秀相手に堂々と戦い、打ち破っても決しておかしくないはずが、それが不可能だった理由が「三つ目の偶然」でした。
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こうした長年の苦労で磐石(ばんじゃく)になったはずの同盟関係を反古(ほご)にされたばかりでなく、家臣の縁戚とその子を討たれる立場になった光秀は激しく動揺しました。
「信長様の考えにはもはやついていけない」。従来の秩序こそが正しいと考え、信長の行動が理解できなかった光秀の中に芽生えた不信感がついに頂点に達し、主君への裏切りを決意させました。しかし、相手は何と言ってもあの「信長」であり、容易に勝てる相手ではありません。
しかし、光秀は実際に「本能寺の変」を起こし、敗れた信長を自害させました。なぜ彼は困難が予想された裏切りを成功させたのでしょうか。
その背景を探ることで、私たちは光秀という人物に課せられた「運命」を知ることになるのです。
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しかし、これらの「ついていけない」思いだけで、光秀が信長への謀反を決意したのみならず、実際に行動したとは断定できそうもありません。不信感は確かに募(つの)っていったでしょうが、それが確実に主君への裏切りを決意させ、さらに行動に移した「何か」があったとは考えられないでしょうか。
ところで、一つの事件が起きた後に実行犯を捜索(そうさく)する際の名言に「事件後に一番得をした者を疑え」というものがあります。この格言を「本能寺の変」に当てはめれば、誰が一番得をしたといえるでしょうか。
羽柴秀吉の名前が真っ先に浮かびそうですが、彼はむしろ「被害者」になりかけています。光秀の毛利家に対する使者が秀吉側に捕まったことによって、秀吉は信長が暗殺されたことを初めて知りました。その後、急いで毛利家と講和して引き返しましたが、もし毛利家が信長暗殺を先に知っていれば、彼は中国地方に釘付けになっていたことでしょう。そんなリスクの高いことを秀吉が行うとは考えられません。
本能寺の変によって一番得をしたのは、実は四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)でした。信長はそれまで講和を結んでいた長宗我部元親を征伐する決意を固め、三男の織田信孝(おだのぶたか)や家臣の丹羽長秀(にわながひで)らに攻めさせる準備をしていました。しかし、その直前に本能寺の変が起こったため、元親は滅亡を免れたのです。
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正親町天皇は信長に信頼と期待を寄せておられたとされ、天正5(1577)年には信長に右大臣を宣下(せんげ、天皇の命令を伝える公文書を公布すること)されました。
一方、信長は天正9(1581)年に京都において天皇ご臨席のもとで、一種の軍事パレードともいうべき「馬揃(うまぞろ)え」を行っており、これは信長が自分の力を周囲に誇示するためだったというのが通説とされていますが、その一方で「朝廷に対する圧力」もあったとされています。
光秀は早くから朝廷や公家と通じ、交渉役として奔走(ほんそう)してきましたが、信長の朝廷に対する数々の姿勢は、そんな自分の今までの血のにじむような努力を無にしてしまいかねない、とんでもないものに見えました。
光秀に朝廷に対する尊敬の思いがあったかどうか定かではないですが、少なくとも自己の努力を否定しかねない信長の行動に対しては「ついていけない」と不信感を抱くようになったと考えられます。
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こうした信長の姿勢は、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなった1570年代の後半からより顕著に、そしてよりエスカレートしていきました。古今東西の絶対的な権力者の誰しもが陥りがちな「独裁者の罠(わな)」に、信長も嵌(はま)ってしまったのです。
例えば天正8(1580)年、信長は古来の重臣であった佐久間信盛(さくまのぶもり)や林通勝(はやしみちかつ)を、過去の不行跡(ふぎょうせき)を理由に突然追放しており、天正10(1582)年旧暦4月には、自分が安土城を留守にしている間に無断で外出した侍女たちを残らず殺害するという事件も起こしています。
信長による猜疑心(さいぎしん)に満ちた行動に対して、家臣たちは「明日は我が身か」とおびえるとともに、信長の手法についていけないという考えを持つようになりましたが、その中のひとりに光秀がいたのです。
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