兄の不穏(ふおん)な動きに対して、嵯峨天皇は大同5(810)年旧暦3月に天皇の命令を速やかに伝えるための秘書官としての役割を持つ蔵人所(くろうどどころ)を設置され、側近の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが、その長官に当たる蔵人頭(くろうどのとう)に任命されました。
大同5(810)年旧暦9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知された嵯峨天皇によって阻止されました。敗れた上皇が出家されると、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自殺しました。
この事件を「薬子の変」、もしくは「平城太上天皇(だいじょうてんのう、もしくは「だじょうてんのう」)の変」といいます。なお、太上天皇とは、退位された天皇の尊号である「上皇」の正式名称です。
薬子の変に際し、空海は自ら嵯峨天皇側に売り込んで、鎮護国家のための大祈祷を行いました。その功を賞されて、以後の空海は嵯峨天皇の庇護(ひご)のもとで急速にその存在感を発揮し始めるのです。
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