その後、貞観8(866)年には清和(せいわ)天皇より「伝教大師」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。また、最澄の教えは弟子の円仁(えんにん)や円珍(えんちん)によって広められました。
しかし、二人は後に教理上の争いから分裂し、円珍派は園城寺(おんじょうじ、別名を三井寺=みいでら)に下って寺門派(じもんは)と呼ばれ、延暦寺に残って山門派(さんもんは)と呼ばれた円仁派と対立しました。
ところで、最澄は唐において1年足らずで様々な教えを受けましたが、それゆえに密教に対する知識が不十分であることを自覚していました。そこで、同時期に唐で密教を学んだ空海にしばしば密教経典の借覧(しゃくらん)を申し込みましたが、当初は快く応じていた空海も、やがては拒絶するようになるのです。
なぜ空海は最澄の申し出を拒絶したのでしょうか。その謎を探るためにも、空海の生涯を簡潔に振り返ってみましょう。
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