帰国した翌年の延暦25(806)年、最澄の教えは天台法華宗(てんだいほっけしゅう)として国家に認められましたが、彼が本格的に目指していたのは独自の大乗戒壇(だいじょうかいだん)の設置でした。
先述のとおり、奈良時代に鑑真が来日して我が国に戒律を伝えて以来、当時の僧は戒壇と呼ばれた場所で戒律を授けられることが必須の条件とされていました。当初は奈良の東大寺に戒壇がありましたが、最澄は、奈良仏教からの独立を確固たるものとするために、独自の戒壇を求めていたのです。
最澄の動きは南都の宗派からの激しい攻撃を受けましたが、最澄は「顕戒論(けんかいろん)」を著して反論しました。弘仁13(822)年に最澄は56歳で死去しましたが、その直後に大乗戒壇の設置が認められました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。