なお、桓武天皇は遷都の際に南都、すなわち平城京付近の寺院の移転を許可されませんでしたが、これは「旧来の仏教勢力の抑制」のほか、長屋王などのタタリ封じで大仏を建立したにもかかわらず、道鏡への譲位問題などが起きたことで、旧来の仏教が「怨霊(おんりょう)封じ」に対処できなかったからだという説もあります。
しかし、平安京に遷都はしたものの、新たな仏教の寺院は建立できたとしても、仏教のさらなる発展や平安京以後の国家の安定をどうするかという大きな課題がありました。
そこで、桓武天皇は平安京の「鬼門(きもん、東北の方角をさし、不吉であるとされる)」に位置する比叡山に寺院を建立していた一人の僧に白羽の矢を立て、彼の求めに応じて唐に派遣させることにしました。
その僧こそが同時すでに名声を得ていた最澄であり、また彼と同時期に遣唐使として海を渡ったのが、当時はほぼ無名の存在であった空海だったのです。
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