延暦寺に大乗戒壇を設置させることに成功した最澄は、生前から「大乗戒」を盛んに主張していました。最澄は大乗戒によって「僧に対しても大乗仏教独自の戒律があっても良い」と考えたのです。
「戒律による細かいルールよりも、実質や中味を重要視する」最澄の考え方は、時代が下るにつれて「信心(=仏を信じる心)さえあれば、戒律そのものが不要である」という形に発展していきました。
そして、その流れのもとに堂々と結婚を公表し、子までなした僧が鎌倉時代に現われました。彼こそが浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖である親鸞(しんらん)であり、若い頃に比叡山延暦寺で修行を経験しているのです。
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同年旧暦3月15日、空海は弟子たちを集めて25か条からなる遺言を伝えると、6日後の3月21日に62歳で死去しました。空海の死後から86年後の延喜(えんぎ)21(921)年には、醍醐(だいご)天皇から「弘法大師」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。
なお、空海は「入定(にゅうじょう)」したとされ、入定すると肉体もまた永続性を獲得するという考え方から、後に空海は死んだのではなく、永遠に現世に留まって、衆生(しゅじょう)の救済のための禅定(ぜんじょう)を続けているとする「入定信仰」が生まれました。
空海は高野山の奥の院の霊廟(れいびょう)で現在も禅定を続けているとされており、空海のもとには毎朝食事が運ばれて続けています。
また、四国八十八箇所を巡礼する「お遍路(へんろ)さん」の衣服あるいは笠や、巡礼コースの至る所に「同行二人(どうぎょうににん)」と記されているのは、自分は一人ではなく、常にお大師さん(=空海)が一緒に居てくれている、という意味です。
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実は、このうち「弘法にも筆の誤り」の由来が、平安時代末期に成立したとされる「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」に収められているのを皆さんはご存知でしょうか。
空海が平安京の応天門(おうてんもん)の額を書いた際に、「応」の一番上の点の字を書き忘れたまま門に掲(かか)げられてしまいました。しかし、間違いに気づいた空海は、慌(あわ)てることなく筆を額に投げつけて点を打ったそうです。
ちなみに「弘法にも筆の誤り」の本来の意味は、空海のような書道の名人は、書き直し方も常人とは違うものだという称賛も込められているそうです。
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綜芸種智院は空海の没後10年を経て廃絶されましたが、その伝統は、現在の種智院大学に承継されています。
また、弘仁12(821)年には、讃岐国の満濃池(まんのういけ)の改修を指揮して、アーチ型の堤防など当時の最新工法を駆使し、わずか数か月で工事を成功に導きました。
香川県仲多度郡(なかたどぐん)まんのう町にある満濃池は、現在も日本最大の灌漑(かんがい)用のため池として存続しており、また空海が採用したアーチ型の堤防は、現代でもダムを造る際の技術として応用されています。
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東寺は平安京遷都に際して、西寺(さいじ)とともに鎮護国家の中心寺院として創建された由緒ある寺であり、これを空海に託すということは、嵯峨天皇が空海を仏教界の第一人者として認めておられたことを意味しているといえます。
高野山とは別に、都にも真言密教の根本道場を建てることを目指していた空海は、下賜された東寺を「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と号し、立体曼荼羅(りったいまんだら)をつくって国家鎮護の道場としました。
真言宗が公文書に登場するようになるのはこれ以降のことであり、その意味においても、宗教としての真言宗が確立したのはこの頃とされています。なお、東寺も平成6(1994)年に「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録されました。
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程なくして下賜が認められると、空海は早速弟子たちを現地調査に差し向け、弘仁9(818)年には空海自身が高野山に登り、翌春には密教の秘法を7日間行って伽藍(がらん、寺院を構成する主要な建造物群のこと)の配置を決めました。
空海が独自の理論によって構想した根本道場たる「壇上(だんじょう)伽藍」は、高野山の自然の中に大日如来(だいにちにょらい)の宇宙観を創出するものであり、空海の没後、数十年を経て完成しました。
なお、高野山はその後も日本仏教の聖地の一つとされ、平成16(2004)年にはユネスコから世界遺産に登録されました。
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最澄の申し出に対し、当初は快く応じていた空海でしたが、弘仁4(813)年に「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」の借覧を申し込まれた際、遂にこれを拒絶しました。
なぜなら、理趣釈経は「理趣経(りしゅきょう)」の注釈書であり、人間の欲望を肯定(こうてい)する教えが書かれていたからです。これをもし文字のみで読み違えれば、危険な方向に進みかねないことを空海は恐れたのでした。
そもそも、本当に密教を身に付けたいのであれば、空海の弟子になって何年も修行を重ねるのが本筋というものでした。しかし、比叡山を抱えて多忙の身であった最澄にはそれができず、やがて二人の仲は決裂してしまったのです。
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兄の不穏(ふおん)な動きに対して、嵯峨天皇は大同5(810)年旧暦3月に天皇の命令を速やかに伝えるための秘書官としての役割を持つ蔵人所(くろうどどころ)を設置され、側近の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが、その長官に当たる蔵人頭(くろうどのとう)に任命されました。
大同5(810)年旧暦9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知された嵯峨天皇によって阻止されました。敗れた上皇が出家されると、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自殺しました。
この事件を「薬子の変」、もしくは「平城太上天皇(だいじょうてんのう、もしくは「だじょうてんのう」)の変」といいます。なお、太上天皇とは、退位された天皇の尊号である「上皇」の正式名称です。
薬子の変に際し、空海は自ら嵯峨天皇側に売り込んで、鎮護国家のための大祈祷を行いました。その功を賞されて、以後の空海は嵯峨天皇の庇護(ひご)のもとで急速にその存在感を発揮し始めるのです。
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先述のとおり、桓武天皇が延暦13(794)年に都を平安京に遷(うつ)された頃、桓武天皇の子で皇太子の安殿(あて)親王は身体が弱く、病気がちでした。
そんな親王の后(きさき)としてある女性が選ばれた際に、その女性が幼かったため、彼女の母親も後見役として一緒に迎えられましたが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。
何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが藤原薬子(ふじわらのくすこ)であり、安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)され、安殿親王が平城(へいぜい)天皇として即位されると、薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
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しかし、帰りの船はまたしても暴風雨に遭い、あわや難破かと思われたとき、空海は唐で彫った不動明王像(ふどうみょうおうぞう)を帆先に立て、帰国できるように祈祷(きとう)を行いました。すると、不動明王は右手に持った剣で押し寄せる波を次々と切り裂き、大同(だいどう)元(806)年旧暦10月に、空海らは無事に大宰府(だざいふ)に帰着しました。
空海が持ち帰ったとされる「波切(なみきり)不動明王」は、現在も高野山南院の本尊として祀(まつ)られていますが、このエピソードにちなんで、同じ名を持つ不動明王が全国で海難除けあるいは航海安全の神様としてお祀りされるようになりました。
なお、高知県土佐市の青龍寺は、空海が師である恵果を偲(しの)んで、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したものですが、ここの本尊も波切不動明王であり、またモンゴル人初の横綱である朝青龍(あさしょうりゅう)の四股名(しこな)の由来にもなっています。
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