そして805年旧暦5月、当時の密教の第一人者で青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)を訪ねました。空海を一目見た恵果は「あなたが来ることは知っていた。いつ来るかと待っていたものだ」と喜んで彼を迎え、すぐさま教義の伝授に取り掛かりました。
驚くべきスピードで密教を習得した空海は、わずか3か月後の同年旧暦8月に密教の最高位となる「阿闍梨位(あじゃりい)」を授かりましたが、その後、程なくして恵果は病に倒れました。
同年旧暦12月25日(806年1月12日)に60歳の生涯を閉じた恵果は、死の直前に空海を呼ぶと、「一刻も早く日本に帰り、密教を広めなさい。それが私への報恩になる」と諭(さと)しました。
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地方官たる郡司(ぐんじ)を父に持った真魚は、幼い頃から聡明さを称えられ、15歳の頃には京都(=長岡京)に出て、叔父で儒学者の阿刀大足(あとのおおたり)から学問の手ほどきを受けると、18歳で当時の官僚育成機関であった「大学」に入りました。
しかし、大学での勉強に飽(あ)き足らなかった真魚は、やがて私度僧(しどそう)として山林での修行に身を投じ、その頃に「空海」と名乗るようになったと伝えられています。
そして延暦23(804)年、31歳になった空海は東大寺戒壇院で授戒を受け、派遣期間20年の私費留学僧として遣唐使船に乗り込みました。先述のとおり、彼と同時期に別の船に乗っていたのが最澄です。
造船や航海技術が未熟であった当時は、遣唐使による航海は命がけであり、4艘(そう)あった船のうち、無事に中国大陸にたどり着いたのは、最澄と空海がそれぞれ乗っていた船のみでした。
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その後、貞観8(866)年には清和(せいわ)天皇より「伝教大師」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。また、最澄の教えは弟子の円仁(えんにん)や円珍(えんちん)によって広められました。
しかし、二人は後に教理上の争いから分裂し、円珍派は園城寺(おんじょうじ、別名を三井寺=みいでら)に下って寺門派(じもんは)と呼ばれ、延暦寺に残って山門派(さんもんは)と呼ばれた円仁派と対立しました。
ところで、最澄は唐において1年足らずで様々な教えを受けましたが、それゆえに密教に対する知識が不十分であることを自覚していました。そこで、同時期に唐で密教を学んだ空海にしばしば密教経典の借覧(しゃくらん)を申し込みましたが、当初は快く応じていた空海も、やがては拒絶するようになるのです。
なぜ空海は最澄の申し出を拒絶したのでしょうか。その謎を探るためにも、空海の生涯を簡潔に振り返ってみましょう。
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帰国した翌年の延暦25(806)年、最澄の教えは天台法華宗(てんだいほっけしゅう)として国家に認められましたが、彼が本格的に目指していたのは独自の大乗戒壇(だいじょうかいだん)の設置でした。
先述のとおり、奈良時代に鑑真が来日して我が国に戒律を伝えて以来、当時の僧は戒壇と呼ばれた場所で戒律を授けられることが必須の条件とされていました。当初は奈良の東大寺に戒壇がありましたが、最澄は、奈良仏教からの独立を確固たるものとするために、独自の戒壇を求めていたのです。
最澄の動きは南都の宗派からの激しい攻撃を受けましたが、最澄は「顕戒論(けんかいろん)」を著して反論しました。弘仁13(822)年に最澄は56歳で死去しましたが、その直後に大乗戒壇の設置が認められました。
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なお、桓武天皇は遷都の際に南都、すなわち平城京付近の寺院の移転を許可されませんでしたが、これは「旧来の仏教勢力の抑制」のほか、長屋王などのタタリ封じで大仏を建立したにもかかわらず、道鏡への譲位問題などが起きたことで、旧来の仏教が「怨霊(おんりょう)封じ」に対処できなかったからだという説もあります。
しかし、平安京に遷都はしたものの、新たな仏教の寺院は建立できたとしても、仏教のさらなる発展や平安京以後の国家の安定をどうするかという大きな課題がありました。
そこで、桓武天皇は平安京の「鬼門(きもん、東北の方角をさし、不吉であるとされる)」に位置する比叡山に寺院を建立していた一人の僧に白羽の矢を立て、彼の求めに応じて唐に派遣させることにしました。
その僧こそが同時すでに名声を得ていた最澄であり、また彼と同時期に遣唐使として海を渡ったのが、当時はほぼ無名の存在であった空海だったのです。
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しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で、密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河らを乗せた船が難破した一方で、無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。
鑑真は我が国に戒律の他に彫刻や薬草の知識を伝え、唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建して我が国に留まり、天平宝字(てんぴょうほうじ)7(763)年に76歳の生涯を終えました。ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅(しらぎ)より下になっていることに対して猛烈に抗議し、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。
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鑑真は弟子たちに「誰か日本に渡る人はいないか」と問いかけましたが、誰も手を挙げようとしないので、「それなら私自身が行く」と自らの渡日(とにち)を決意しました。
しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは、大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら、嵐に遭(あ)って難破してしまいました。
5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
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やがて蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)との間で587年に本格的な戦闘が行われ、蘇我氏が勝利したことで我が国に仏教が定着し、その後に聖徳太子(しょうとくたいし)によって篤(あつ)く信仰されるようになりました。
奈良時代に入ると、謀殺(ぼうさつ)された長屋王(ながやおう)のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武(しょうむ)天皇によって、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆が政策の最重要課題とされました。
そして天平(てんぴょう)15(743)年には、大仏の造立(ぞうりゅう)によって我が国の平安を築こうとする壮大な計画のもとに、大仏造立の詔(みことのり、天皇によるお言葉やその文書のこと)が出されました。
8世紀当時の最新の技術によって造られた大仏は、約10年の歳月を費やして天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4(752)年にようやく完成し、東大寺(とうだいじ)で僧侶(そうりょ)1万人が参列した盛大な開眼供養(かいげんくよう)が行われました。
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ヘレニズム文化の影響を受けた初期の仏像はギリシア彫刻の技法によって造られており、同時代のローマ帝国で盛んにつくられた神々の像とも似ているという大きな特徴があります。
その後、イラン系のクシャーナ朝の保護を受けた大乗仏教は、ガンダーラを中心とする仏教美術とともに各地に伝えられ、中央アジアからチャイナ、さらには朝鮮半島を通じて我が国にまで影響を及ぼすようになりました。
なお、我が国で仏教が伝えられたのは、「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」などによる538年説と、「日本書紀」による552年説とがあります。
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なお、大乗とは「あらゆる人々の大きな乗りもの」という意味であり、釈迦の教えに従って出家し悟りをひらくことは、自分一人のためではなく、広く人々を救済するためのものであるという考えに基づいています。
大乗仏教の発展によって、旧来の仏教は自身のみの悟りを目的とした利己的なものと批判され、「小乗(しょうじょう)」と呼ばれるようになりました。
しかし「小乗」は大乗側から与えられた蔑称(べっしょう)であるため、今日では多くの部派に分かれたという意味の「部派仏教」と称されています。部派仏教のうち、最も厳格に戒律(かいりつ)を守り、伝統を継承しようとした保守派は「上座部(じょうざぶ)」と呼ばれており、いわゆる「上座部仏教」のことです。
上座部仏教はインドのマウリヤ朝のアショーカ王に保護された後、前3世紀にスリランカに伝えられて発展し、さらに東南アジア各地に伝えられ、現在もタイなどで行われています。
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