だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの「討幕の密勅」がその根拠を失うという流れをも成立させてしまいました。
さらには、徳川家がほぼ無傷で生き残ったことで、来るべき新政権の中心的存在として、そのまま政治の実権を握り続けるという可能性をも秘めるようになったのです。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がない、と憤(いきどお)った薩長両藩や公家の岩倉具視らの討幕派は、慶応3年旧暦12月9日(1868年1月3日)に、武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを「王政復古の大号令」といいます。
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このままでは武力討幕が避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した慶喜は山内の策を受けいれ、討幕の密勅と同じ日の慶応3(1867)年旧暦10月14日に、朝廷に対して「大政奉還(たいせいほうかん)」を申し出ました。
朝廷が慶喜からの申し出を受け、大政奉還を受理したことで、徳川家康以来260年余り続いた江戸幕府がついに終焉(しゅうえん)を迎えることになったのです。
ところで、皆さんはなぜ幕府が「大政奉還」という形式で政権を朝廷に返上したかご存知でしょうか。実は、これに関しても、慶喜が就任していた「征夷大将軍」という地位が大きく関係しているのです。
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討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇によって倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。
しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。
いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、国内で大きな内乱が起きるということは、事後の混乱と諸外国の介入などによって、我が国が存亡の危機を迎える可能性も十分考えられることだったのです。
また、武力による討幕は、徳川家そのものの滅亡も意味していましたから、曲がりなりにも長年にわたって政治を行ってきた徳川家を滅ぼすことに対しては、やはり大きな抵抗を感じる藩も少なからず存在しており、その中心となったのが土佐藩でした。
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我が国における征夷大将軍も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、チャイナの将軍と同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を握るための地位」と拡大解釈され、建久(けんきゅう)3(1192)年に源頼朝が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権たる鎌倉幕府が朝廷から公認されるという扱いとなったのです。
朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、頼朝は政治の実権を朝廷から、すなわち「天皇に委任される」ことになりました。もちろん、この流れは、室町幕府も江戸幕府も同じです。
要するに、江戸幕府は「天皇のお墨付き」をもらっていたも同然であり、いかに武力で勝ろうとも、そんな幕府をいきなり討つことは、天皇に弓を向けるも同然の行為であり、絶対にできなかったのです。
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全国で「世直し」と呼ばれた一揆(いっき)や打ちこわしが発生したり、伊勢神宮へのお蔭参(かげまい)りが「ええじゃないか」という集団乱舞につながったりしたことがその証拠です。
そんな中、慶応2(1866)年に同盟を結んだ薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)の両藩は、公家(くげ)の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、どれだけ優位に展開していようが、薩長が「いきなり幕府を倒す」ことは不可能でした。
なぜなら、幕府が成立した背景に天皇が深くかかわっておられるからであり、この事実をしっかり理解できなければ、本来は楽しく学べるはずの歴史が、苦痛でしかない「単なる知識の暗記」で終わってしまうのです。
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そんな中、孝明天皇はご自身を犠牲になさるお覚悟で、護国のためにひたすら祈られるとともに、多くの御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を詠(よ)まれました。
また、孝明天皇は攘夷(じょうい)のお考えが強かったものの、異母妹の和宮親子(かずのみやちかこ)内親王を14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)と結婚させるなど、討幕を好まれずに公武合体のお立場でいらっしゃいました。
しかし、慶応(けいおう)2年旧暦12月(1867年1月)に孝明天皇は36歳で崩御され、第二皇子の睦仁(むつひと)親王が翌慶応3(1867)年に16歳で122代の明治天皇として即位されました。
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第72回歴史講座で紹介したように、125代の天皇陛下(現在の上皇陛下)が平成31(2019)年4月30日に皇太子の徳仁(なるひと)親王に譲位されましたが、天皇のご譲位は光格天皇以来202年ぶりで、憲政史上では初めてのことでした。
その後、天保(てんぽう)11(1840)年に上皇が70歳で崩御されると、翌天保12(1841)年に「光格天皇」と追号され、62代の村上(むらかみ)天皇以来長らく絶えていた「天皇号」が復活しました。
実は、63代の冷泉(れいぜい)天皇以来、我が国では安徳(あんとく)・後醍醐(ごだいご)の両天皇を除いて「○○院」と称されていました。約900年ぶりとなる天皇号の復活は、皇室の権威の興隆とともに徳川将軍家の権威の失墜(しっつい)を招くことになるのです。
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定信の拒否によって、光格天皇がご気分を害されるなど、これ以降の朝幕関係は微妙となり、また幕府への信頼が低下することによって天皇の権威が逆に高まり、幕末における討幕運動への遠因ともなってしまいました。つまり、尊号一件における定信の行動が、結果として幕府の運命を暗転させたのですが、そればかりでなく、定信自身が政権の座から転がり落ちるきっかけをもつくってしまいました。
当時の将軍である徳川家斉は、8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として、自身の血統から新たに設立した御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して、前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて寛政5(1793)年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は約6年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も、老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(いろう)」として政治を行っています。
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定信の周囲は日を追うごとに騒がしくなっていきましたが、そんな彼に止めを刺す事件が起きました。いわゆる「尊号一件(そんごういっけん)」のことです。
先述のとおり、当時在位されておられた光格天皇は閑院宮家からご即位されましたが、天皇の父君の閑院宮典仁(すけひと)親王のお立場が、禁中並公家諸法度の規定によって「摂関家より下」とされていました。
このため、天皇の御尊父が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっており、事態を重く見られた光格天皇は、父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
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最初は数人だった人数は日を重ねるごとに膨(ふく)れ上がり、わずか十日余りで数万人が集まって同じようにお参りを始めました。これら一連の流れは「御所千度参り」と呼ばれています。
この事態に対して、朝廷は後桜町上皇が3万個のリンゴをお配りになるなどの対応をしましたが、それだけではとても足りず、事態を憂慮された光格天皇が、京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を求められました。
天皇のご行動は禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為でしたが、天皇の叔父にあたる関白の鷹司輔平(たかつかさすけひら)も厳罰を覚悟のうえで同様の申し入れを行ったこともあり、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出しました。
当時の幕府は同年旧暦4月に徳川家斉(とくがわいえなり)が11代将軍に就任したばかりであり、徳政を求める意味もあったことからか、天皇や関白が事態の深刻さから行動を起こしたのはもっともなことであるとして、法度違反に関しては不問にされました。なお、朝廷の一連の動きが実際の救済行動に結びついたことが、後の尊王論の興隆の一因となったとされています。
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