長引く戦乱によって京都は廃墟(はいきょ)と化し、国土全体が荒廃して朝廷の財政も逼迫(ひっぱく)しました。後土御門天皇は明応9(1500)年旧暦9月に59歳で崩御されましたが、葬礼の費用がなく、ご遺体がおよそ40日ものあいだ御所に安置されたままだったそうです。
寛正5(1464)年に後土御門天皇の第一皇子として誕生された勝仁(かつひと)親王は、父君の崩御によって明応9(1500)年に104代の後柏原(ごかしわばら)天皇として即位されましたが、即位の祭祀(さいし)の費用がなく催行できず、21年後の永正8(1521)年にようやく即位の礼が実現しています。
大永(だいえい、たいえい)5(1525)年に天然痘(てんねんとう)が大流行した際に、後柏原天皇は自ら筆をとられ、宸筆(しんぴつ、天皇ご自筆の文書のこと)の「般若心経(はんにゃしんぎょう)」を延暦寺と仁和寺(にんなじ)に奉納されました。天皇は世の乱れを自らの不徳のせいとしてお詫びされたのです。
翌大永6(1526)年旧暦4月、後柏原天皇は63歳で崩御されました。なお、追号の「後柏原」は、平安京に遷都(せんと)された桓武(かんむ)天皇の別名「柏原帝」に由来しています。
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