これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんせん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛り上がってきましたが、応仁の乱のきっかけのひとつであった守護大名の家督争いに決着がつかなかったこともあり、戦いはいつしか京都から全国に広がって、延々と果てしなく続けられました。
そんな中で、文明(ぶんめい)3(1471)年に西軍の朝倉孝景(あさくらたかかげ)が東軍に寝返ると、追いつめられた西軍は後南朝の小倉宮の子孫と称する人物を「西陣の南帝(なんてい)」として立てましたが、義教の時代に行われた断絶工作が進んでいたうえに、後南朝が三種の神器を持っていなかったことから、いつしか歴史上から姿を消してしまいました。
その後、文明5(1473)年に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、同年に義政が義尚に将軍職を譲った後もなお戦いの決着がつかず、開始から約10年後の文明9(1477)年になってようやく終戦を迎えましたが、長きにわたった戦いで、京都の街は内裏(だいり、天皇の居所を中心とする御殿のこと)をはじめとして一面焼け野原となってしまいました。
なお、隠居した義政は、後に銀閣寺または慈照寺(じしょうじ)と呼ばれた東山殿(ひがしやまどの)の建設を文明14(1482)年に始めましたが、その完成を待つことなく延徳(えんとく)2(1490)年に亡くなっています。
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