次に、条約改正の目的もあって民法と商法の編纂が進められ、明治23(1890)年に民法・商法・民事訴訟法や刑事訴訟法が新たに公布され、法治国家としての体裁が整いました。
ところが、民法の概要が、当時のフランス法的な個人の尊厳を重視する一方で、我が国古来の家族に関する慣習を無視したものであったため、制定前後から様々な意見が飛び交いました。これを「民法典論争」といいます。
論争において、憲法学者の穂積八束(ほづみやつか)が自らの論文で「民法出(い)デテ忠孝亡ブ」と書いて厳しく批判した一方で、梅謙次郎(うめけんじろう)は民法をそのまま導入すべきと主張しましたが、最終的には民法の施行(しこう)が延期され、大幅な修正が加えられたうえで、明治31(1898)年に新民法が公布されました。
新民法はドイツ民法を参考として、我が国の家制度の維持を重視しており、家長たる戸主(こしゅ)に家族の統括者という地位を与えて、戸主の地位をその権利義務一切を含め、原則として長男のみに一括して相続させるという家督(かとく)相続の制度を採用しました。
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国会は「帝国議会」と呼ばれ、対等の権限をもつ貴族院と衆議院からなる二院制が採用されました。なお、両院は対等ではあったものの、予算の編成は衆議院に先議権がありました。
このほか、憲法において国務大臣は、各自がそれぞれ天皇を補佐する責任を持つとされましたが、実は大日本帝国憲法には「内閣総理大臣」や「内閣」の文字はありませんでした。これは、憲法に内閣の文字を入れることで、総理大臣すなわち首相がかつての徳川幕府の将軍のように力を持ち、天皇を軽んじる可能性があることを、幕府と命がけで戦った経験を持つ伊藤博文が恐れたからだという説があります。
なお、憲法公布と同時に、皇位の継承やいわゆる摂政の制度などを定めた皇室典範(こうしつてんぱん)や、貴族院令あるいは衆議院議員選挙法も公布されました。
このうち貴族院は、皇族や先の華族令で規定した華族のほか、国家の功労者や学識者などから天皇により任命される議員や、各府県から一人ずつ選出された多額納税者議員から構成されました。なお、衆議院議員選挙法の詳細については、次回(初期議会)で改めて紹介します。
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大日本帝国憲法の条文における「臣民の権利」には、参政権や契約の自由あるいは所有権の不可侵、信教および言論・出版・集会・結社の自由などが認められており、19世紀末に制定されたという事情を考えれば、かなり多くの権利が認められているといえます。ちなみに生存権(=社会権)がないのは、それ自体が20世紀に考え出された権利だからであり、大日本帝国憲法に含めるのは無理がある話です。
次に「法律による制限」についてですが、法律で制限されているということは、逆に言えば「法律で禁じられていること以外は自由である」と同時に「政府は法律で決められてもいないのに国民の自由や権利を奪(うば)ってはならない」ということも意味しています。
また、これもよく考えれば理解できることですが、この世に「無制限の権利や自由」というものが存在するのであれば、平安時代や戦国時代のように「力あるものが勝つ」という、実に住みにくい社会になってしまいますから、近代法治主義の原則から考えれば、権利や自由が「法律により制限されている」のはむしろ当然であるといえるのです。
さらに、この原則は日本国憲法においても例外ではなく、第12条などで明記された「公共の福祉」の名のもとに、権利や自由が制限されているのは有名な事実ですね。
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そこで、歴史的な権威をお持ちの天皇が、憲法における様々な手続きに署名されるという重い現実によって、憲法そのものや、憲法によって規定された議会や国務大臣(=内閣)、裁判所などの決定に「正当性」を加えようとしたのです。
これこそが「天皇によって国がまとまる」という我が国古来の理想的な政治体制であり、現代の日本国憲法における「象徴天皇」とも大きな差はありません。大日本帝国憲法の「天皇大権」で成文化されたのは、あくまでも天皇の「権威」であって、決して「権力」ではないことを、私たちは深く理解する必要があるのではないでしょうか。
ただし、天皇大権の一つである「統帥権(とうすいけん、軍隊を指揮する権利のこと)の独立」については、実際には陸軍や海軍の責任者が統帥権を持っていたにもかかわらず、天皇に指揮権があるかのように条文上で解釈できたことが、後々になって我が国の運命を大きく暗転させるきっかけをつくってしまったことは、返す返すも残念なことでした。なお、統帥権の独立に関する問題については、昭和時代初期の頃に改めて詳しく紹介します。
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内閣(大日本帝国憲法上は「国務大臣」と表記)に関しても、憲法第55条第1項で「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ、補佐して助言すること)シ其(そ)ノ責(せめ)ニ任ス」と書かれており、これも第5条と同様に「天皇が行政権を行使するには国務大臣(=内閣)の補佐や助言が必要である」と解釈すべきです。
また、天皇大権と称されているものの一つに「緊急勅令(きんきゅうちょくれい)」がありますが、これも憲法第55条第2項で「国務大臣ノ副署ヲ要ス」と書かれており、実際に天皇が直接命令をお出しになられても、後に大臣が署名によって承認しなければ効果がありませんでした。
さらに司法権についても、憲法第57条の「司法権ハ天皇ノ名ニ於(おい)テ法律ニ依(よ)リ裁判所之ヲ行フ」における「天皇の名において」とは「天皇の権威をもって」裁判所が法に基づいて天皇の代わりに審理すると解釈すべきなのです。
つまり、天皇は立法権・行政権・司法権の三権について何ら権力をお持ちでなく、議会や国務大臣(=内閣)、あるいは裁判所が決めたことに従われるのみである、ということが良く分かりますね。
さらに付け加えれば、憲法第3条における「神聖不可侵」とは、天皇の尊厳や名誉を汚さないために「天皇に政治的責任を負わせない」というのが正しい意味であり、これは「国王は君臨すれども統治せず」とする立憲君主制の考え方そのものでもあります。
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まず欽定憲法ですが、これは「君主が定める」という意味であり、形式的な言葉に過ぎません。先述したように、至高の権威をお持ちの天皇の名の下で政治を行うという、政府の強い意志が込められていたことからこそ「天皇が臣民に授ける」という形式で憲法を制定する必要があったのです。
次に「統治権の総攬者」ですが、憲法の条文(第1条)における「統治ス」は「治(シラ)ス」、すなわち「お知りになる=公平に治める」という意味の大和言葉(やまとことば)を漢語化したものであり、「権力を私有せず、公共のために世の中を治める」という、従来の天皇のお立場を成文化したものであると解釈できます。
つまり、大日本帝国憲法は、初めの第1条から「天皇主権」を明確に否定しているのです。
また「総攬」とは、ただ単に「とりまとめて持つ」という意味であり、これを「我が手に握って実権を持つ」と解釈するのは強引であるうえに、実際の憲法の条文(第4条)では「此(こ)ノ憲法ノ条規ニ依(よ)リテ」と明記されており、仮に実権を握っていると理解できたとしても、天皇ご自身も憲法の規定に従わなければならないのですから、やはり「独裁統治」と解釈するには無理があり過ぎます。
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天皇と政治の関わりの歴史を語る「まつりごと」、次回は「江戸時代」です。「法を超える存在」とされておられた天皇に関する規定を我が国史上初めて成文化した徳川幕府。そんな中で、歴代の天皇はどのように幕府と関わられたのでしょうか。歴史に残る仇討ち事件との関連を含めて、黒田節が今回も冴え渡ります。

(クリックで拡大されます)
第75回黒田裕樹の歴史講座
「まつりごと ~天皇と政治の関わりの歴史4 江戸時代」
主催:株式会社スペック・正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:令和元年11月24日(日) 午後2時より
会場:シアターSPEC(株式会社スペック)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
※会場は「太融寺」交差点角の太融寺の隣、茶色いレンガ模様の9階建てのビルの8階です。1階に大阪商工信用金庫があります。
資料代:金2,000円(高校生以下は無料、その他学生割引あり)
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,500円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
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完成した憲法草案は、同じ明治21(1888)年に創設された天皇の最高諮問(しもん、意見を求めるという意味)機関である枢密院(すうみついん)で、明治天皇ご臨席のもとでさらに審議されました。なお、伊藤は枢密院の初代議長に就任するため、内閣総理大臣を辞任しています。
こうした着実な段階を踏んだうえで、明治22(1889)年2月11日の紀元節の日に、大日本帝国憲法(=明治憲法)はついに発布されました。この瞬間、我が国はアジア初の立憲国家となったのです。
憲法発布の当日は祝賀行事が各地で行われ、国民がこぞって憲法の発布を祝いました。普段は反政府的な立場をとっていた新聞各紙でさえ、「聞きしに優(まさ)る良憲法」「大体においては実に称賛すべきの憲法」と評価しました。
さらに、有色人種のアジアの国家が、明治維新からわずか20年余りで憲法をつくったことに対して、欧米列強からは感嘆の声が上がるとともに、完成した憲法を高く評価しました。大日本帝国憲法の発布は、世界史上においても燦然(さんぜん)と輝く画期的な出来事だったのです。
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伊藤は約1年半の時間をかけた末に、当時のドイツ帝国の母体となった旧プロイセン王国の憲法が、我が国の国情に照らして一番相応(ふさわ)しいとの結論を得て帰国しましたが、実際に伊藤がベルリン大学教授のグナイストや、ウィーン大学のシュタインなどから受けた教えは、「日本の憲法は自国の歴史や伝統に立脚したものでなければならない」というものでした。
また、当時の我が国の外交上における最大の懸案は「不平等条約の改正」でしたが、その実現のためには、国の基本法となる憲法を制定するのが当然であるとともに、憲法制定後も政府主体による強い意志で引き続き政治を行う必要がありました。
そこで政府は、我が国の元首であり長い歴史を誇る天皇の意味について深く考え、至高(しこう)の権威をお持ちの天皇の名の下で政治を行う以外に、国民をまとめると同時に彼らの支持を得る方法はない、という結論に至りました。
だからこそ「天皇が臣民に授ける」形式の憲法が良いと判断したのです。
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明治21(1888)年には「市制・町村制」が、明治23(1890)年には「府県制・郡制」が相次いで公布されました。これらによって、人口が25,000人以上の町が市となったほか、従来の町村も大幅に合併して新しく組織されました。
市町村の議決機関としては市町村会が設置され、一定額の直接国税を納めた者のみが投票できるという制限選挙ではあったものの、議員が住民から直接選ばれました。自由民権運動が始まって約15年で、ようやくここまでたどり着いたといえますね。一方、郡会は町村会の選出議員と大地主の互選(ごせん)で選ばれ、府県会議員は市会や郡会において間接的に選出されました。
また、府や県の代表たる府知事や県知事は政府が任命し、市長は市会が推薦(すいせん)する候補者の中から内務大臣が任命し、無給の名誉職であった町村長は町村会の公選で選ばれました。
このようにして、府県知事などに政府の強い指導があったものの、地域の有力者を中心とした地方自治制が我が国で確立することになりました。なお、郡制については大正12(1923)年に廃止されています。
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