さらには、義教が非業の死を遂げなければならなかった原因をつくった赤松氏によって、後南朝の御所に最後まで残っておられた高貴な血統を絶たれてしまうという悲劇にもつながってしまいました。歴史というものは、時として苛酷(かこく)な流れを生み出すものなのでしょうか。
こうして後南朝は歴史の表舞台から消滅しましたが、民間の伝承としては生き残り続け、後に明治44(1911)年に南朝が正統であると明治天皇がご裁断されてからは、自分こそが後南朝の末裔(まつえい)であると主張する人々が出現し始めました。なかでも有名なのは、第二次世界大戦の終戦直後に話題になった「熊沢天皇」こと熊沢寛道(くまざわひろみち)氏ですね。
ところで、後南朝が現時点で最後の史料にその姿が残されている「ある大乱」とは、いったい何のことでしょうか。
実は、それこそが戦国時代の幕開けになったとされる「応仁(おうにん)の乱」なのです(詳しくは後述します)。
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赤松氏は幕府にとって「将軍殺し」の天敵であり、禁闕の変の際にも後南朝側についていました。そんな赤松氏であれば、後南朝に味方と偽(いつわ)って吉野からさらに山奥まで入るのは容易(たやす)いことです。
幕府は赤松氏の申し出を許可すると、遺臣たちは長禄(ちょうろく)元(1457)年に後南朝の御所を襲い、南朝の血を引くとされる一ノ宮・二ノ宮兄弟を殺害しましたが、神璽については一時は持ち去ったものの、憤激した後南朝を支持する勢力によって奪い返されてしまいました。
赤松氏の遺臣たちは、1年後の長禄2(1458)年に一ノ宮・二ノ宮の母の御所を再び襲い、今度こそ神璽を奪い去ることに成功しました。こうして禁闕の変以来、多くの血を流して約15年ぶりに神璽が朝廷に戻ったのです。
これら一連の事件は、当時の年号から「長禄の変」と呼ばれています。なお、殺害された一ノ宮・二ノ宮の兄弟(別名を自天王=じてんのう、忠義王=ちゅうぎおう)は前述のとおり南朝の血を引くとされていますが、その詳しい血統は分かっていません。また、神璽を持ち帰った赤松氏は再興が認められ、後に守護大名に返り咲いています。
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この事件は「御所の内裏」を意味する「禁闕(きんけつ)の変」と呼ばれており、御所を襲ったのは金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)の兄弟など後南朝の人々でした。金蔵主と通蔵主は後亀山天皇の血を引いているとされていますが定かではなく、金蔵主は禁闕の変の際に討たれ、通蔵主などは捕えられて流罪(るざい)となり、その後の消息は不明となっています。
また、小倉宮聖承の子で出家していた教尊(きょうそん)も、禁闕の変への関与が疑われて隠岐(おき)へ流罪となり、小倉宮の血統も断絶となりました。
こうして事件そのものは鎮圧されましたが、三種の神器のうち神璽が後南朝に奪われたままであることは、天皇としての正当性を損ねることにつながることから、朝廷や幕府を不安にさせていました。
ところが、このような異常事態を解決するために、意外な人物が手を挙げたのです。それは、かつて嘉吉の乱で義教を殺害したために滅ぼされた赤松氏の遺臣でした。
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またしても皇位継承の夢が破れた後南朝は、北畠満雅が後亀山天皇の孫にあたる小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう)を率いて再び挙兵しました。今度の戦闘は、鎌倉公方の足利持氏をも巻き込んだ激しいものとなりましたが、持氏が幕府と和睦したこともあり、満雅が討ち死にして挙兵は失敗に終わりました。
後南朝が朝廷や幕府に抵抗を続けることに激怒した将軍義教は、それまでの幕府の政策を転換して、後南朝の血統を根絶やしさせることを決断しました。すなわち、後南朝の子孫を片っ端から寺院に送り込むことで、子孫を残させないようにするとともに、彼らの家来を幕府が召(め)し抱えることで切り離そうとしたのです。
義教による徹底した対策によって、主だった後南朝の血統はすべて断絶してしまいましたが、「万人恐怖」と称された義教の厳しい処置に対する後南朝の恨みは深く、義教が嘉吉の乱で不慮の最期を遂げた後に前代未聞の大事件が起きてしまいました。
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応永17(1410)年、自分の子を皇太子と認められないことを不服として、南朝の後亀山上皇が京都から吉野へと移られました。その後、応永19(1412)年に北朝の後小松天皇が子の称光天皇に譲位されると、南朝に味方した伊勢の国司(こくし、地方の国の行政官のこと)の北畠満雅(きたばたけみつまさ)が挙兵しましたが、失敗に終わりました。
戦後に幕府と和睦したことで、後亀山上皇は京都へ再び戻られ、そのまま応永31(1424)年に崩御されましたが、その後も、南朝の勢力は皇位を回復すべく、様々な手段で幕府と対立することになりました。
南北朝の合一以後における南朝のこれら一連の動きは、今日では「後南朝」と呼ばれています。
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そのあまりの手際の良さに、周囲の誰もが何の手助けもできなかったそうです。なお、この事件は当時の年号から「嘉吉の乱」といいます。
義教の突然の最期は、幕府を含めた周囲に大混乱をもたらしました。義教を殺した赤松氏は幕府によって後に討伐されましたが、義教の死は、幕府や将軍の権威を必然的に大きく低下させ、この後二度と復活できなかったのです。
また、義教による厳しい政策と、彼を殺したことによって没落した赤松氏の存在とが、義満によってもたらされた「高貴な血統」をとんでもない悲劇に巻き込んでしまうことを、この後の誰が予想できたでしょうか。
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さらに翌永享12(1440)年には、持氏の遺児を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙兵しましたが、義教はこれらも滅ぼしました。この戦いを「結城合戦(ゆうきかっせん)」といいます。
かくして、鎌倉をも自分の支配下に入れた義教の権力は絶対的なものとなり、古代の盟神探湯(くかたち、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽=しんぎを判断するという神判=しんぱんのこと)を復活させたり、些細(ささい)なことで激怒して死罪などの厳しい処断を下したりした義教に対して、周囲は「万人恐怖」と震え上がりました。
義教からしてみれば、幕府や将軍の権威を高めるための当然の行為でもあったのですが、その余りにも強引な政治手法は、必然的に守護大名などの対立する勢力の反発を招くことになりました。そして義教の恐怖政治は、かの織田信長と同じように、突然その幕を下ろす日がやってくるのです。
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まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤すと、その財力で奉公衆を整備して、将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方へ攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現しました。
次に義教は、宗教勢力の掌握(しょうあく、自分の思いどおりにすること)を目指しました。将軍就任以前は天台座主として宗教界のトップに君臨していただけに、義教は今までの将軍とは違って、宗教に対する畏怖(いふ、恐れおののくこと)を全く感じていなかったのです。
義教と延暦寺とはやがて内戦状態となりましたが、義教が最後までぶれることなく厳しい姿勢を崩さなかったため、絶望した延暦寺では、永享(えいきょう)7(1435)年に総本堂である根本中堂(こんぽんちゅうどう)に火をかけて多数の僧が焼身自殺するという騒ぎとなり、結果として、義教は宗教勢力をも完全に支配下に置くことに成功しました。
比叡山延暦寺の焼き討ちといえば織田信長(おだのぶなが)が有名ですが、それよりも100年以上も前に、武力によって延暦寺を支配した将軍がいたことは意外にも知られていません。
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そして、応永35(1428)年に義持が亡くなった直後に当たり籤を開封した結果、比叡山延暦寺の最高位である天台座主の義円が選ばれました。
義満がかつて自分の権力強化のために門跡寺院に自分の子を次々と送り込んだことが、こんなところで役に立ったのです。将軍に選ばれた義円は直ちに還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)し、名を義宣(よしのぶ)から後に義教(よしのり)と改めました。
後の世で「籤引(くじび)き将軍」と呼ばれた6代将軍の足利義教の誕生です。
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特に鎌倉府では、応永23(1416)年に前の関東管領であった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)を追放するなどの混乱が起きましたが、翌年には鎮圧されました。この争いを「上杉禅秀の乱」といいます。
このように地方では常に不安があった一方で、幕府周辺においては将軍と有力守護大名とがお互いに権力を主張しながらにらみ合いを続けましたが、これがかえって勢力の均衡(きんこう)を生んだことによって、皮肉にも大きな争いが起きずに小康状態を保っていました。
こうした中で応永32(1425)年に5代将軍の義量が19歳の若さで急死すると、父親である義持が代わりに政務をとりましたが、応永35(1428)年までに重病となり、このままでは将軍家の嫡流(ちゃくりゅう、直系の血脈のこと)の血筋が絶えるという危機となりましたが、義持は自らが後継者を決めることをしませんでした。
なぜなら、幕府と有力守護大名との権力に大きな差がなく、将軍の権威も低下していたために、自身が誰を後継としても、守護大名などからの反発が必至と思われたために出来なかったのです。
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