国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助(いたがきたいすけ)が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には、大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。
両党は、自由党がフランス流の急進的な自由主義を目標として士族や豪農などの支持を得たのに対し、立憲改進党はイギリス流の議院内閣制を目指して、都市部の知識人や実業家の支持を集めるという違いがありました。
また、政府が国会開設の勅諭を出した際に、立憲政治の実現に向けて天皇が定める欽定(きんてい)憲法を制定する基本方針を明らかにしたことに対して、民間においても様々な「私擬(しぎ)憲法」がつくられました。福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)による「私擬憲法案」や、植木枝盛(うえきえもり)による「東洋大日本国国憲按(とうようだいにほんこくこっけんあん)」などが有名です。
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