しかし、西南の役(えき)が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して、国会を開設することを公約するなど、憲法制定や議会政治の実現に向けて着実に前進していることが分かります。
さらには、後に明治22(1889)年に大日本帝国憲法(=明治憲法)が発布され、翌明治23(1890)年には第一回の「帝国議会」が開催されているのですから、明治政府の計画力や実行力の高さには驚くばかりです。こうした事実からすれば、明治政府が「自由民権運動に押されて仕方なく憲法制定や議会政治を目指した」わけではなかったのは、明らかではないでしょうか。
またこの頃には、政府側からの府県会だけでなく、民権派から国会期成同盟が結成されるなど、議会政治の実現に不可欠な国民の力量も確実に上がっており、こうした流れがあったからこそ、明治23(1890)年の帝国議会の開催にこぎつけることができた、ともいえるのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の朝活歴史講座+日本史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。