政府内で孤立した大久保利通は事態を打開するため、翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくりと時間をかけながら、将来的には憲法に基づく議会政治を行うことで合意しました。これを「大阪会議」といいます。
なお、大阪会議において、当初は各自がバラバラだった意見を最終的にまとめ上げたのが、仲介役であった五代友厚(ごだいともあつ)であったと伝えられています。
大阪会議に基づき、同明治8(1875)年4月に、明治天皇の名において「漸次(ぜんじ、「次第に、だんだん」という意味)立憲政体樹立の詔(みことのり)」が出されました。詔、すなわち「天皇のお言葉」で発表するというあたりに、後戻りが許されないという政府の覚悟がうかがえますね。
なお、大阪会議の後に、板垣や木戸が参議として政府に復帰しましたが、板垣は同じ明治8(1875)年2月に、民権派の全国組織である「愛国社(あいこくしゃ)」を大阪で結成すると、10月に再び下野しました。木戸も病気を理由に翌明治9(1876)年に参議を辞職しています。
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