その後、一旦は和議が成立したものの、再び尊氏が直義を東西から挟み撃ちで倒そうとすると、尊氏の計略に気づいた直義は、京都を脱出して北陸伝いに鎌倉へ攻め込もうとしました。
武家政権発祥の地である鎌倉を奪われては尊氏の立場がありません。尊氏は直ちに直義軍を追撃しようとしましたが、自分が遠征している間に直義派となった南朝に京都を制圧されて尊氏追討の綸旨(りんじ)を出されれば、自分が朝敵となって滅亡への道を歩んでしまうのは火を見るより明らかでした。
進退窮(きわ)まった尊氏は、北朝から征夷大将軍に任じられているにもかかわらず、それまで敵対していた南朝と手を結んで、自分の味方につけるしか手段がありませんでした。
以前には後醍醐天皇、今回は直義といった、自分に敵対する勢力を政治的に抹殺することなく「生かして」しまったことで、尊氏は多くの血を流したうえにやっとの思いで構築した政治のシステムを、自らの手で破壊せざるを得なかったのです。
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