このように、身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます(なお、それまで名乗っていた高氏の「高」は、北条高時から同じように偏諱を受けていました)。天皇が身分の低い者、ましてや「ケガレた者」として虫けらのような存在であった武士に対して偏諱を受けさせるのは空前絶後のことでした。
しかし、尊氏が本当に欲しかったのは征夷大将軍の地位であり、目指していたのは「武士のための政治」を自分が行うことでした。源義家の血を引く武家の名門の子孫である自分自身こそが、北条氏に代わって政治の実権を握るにふさわしいと考えていたのです。
そんな折、建武2(1335)年に北条高時の子の北条時行(ほうじょうときゆき)が関東で中先代(なかせんだい)の乱を起こし、一時期は鎌倉を占領しました。尊氏は乱の鎮圧を口実に、後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かって時行軍を追い出すことに成功すると、そのまま鎌倉に留まって独自に恩賞を与え始めるなど、後醍醐天皇から離反する姿勢を明らかにしました。
尊氏の謀反に激怒された後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏の追討を命じられましたが、尊氏は義貞軍を打ち破ると、そのまま京都まで攻めのぼりました。しかし、奥州から北畠親房が入京すると朝廷軍は勢いを盛り返し、敗れた尊氏は九州へ落ちのびました。
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