国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助(いたがきたいすけ)が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には、大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。
両党は、自由党がフランス流の急進的な自由主義を目標として士族や豪農などの支持を得たのに対し、立憲改進党はイギリス流の議院内閣制を目指して、都市部の知識人や実業家の支持を集めるという違いがありました。
また、政府が国会開設の勅諭を出した際に、立憲政治の実現に向けて天皇が定める欽定(きんてい)憲法を制定する基本方針を明らかにしたことに対して、民間においても様々な「私擬(しぎ)憲法」がつくられました。福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)による「私擬憲法案」や、植木枝盛(うえきえもり)による「東洋大日本国国憲按(とうようだいにほんこくこっけんあん)」などが有名です。
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天皇と政治の関わりの歴史を語る「まつりごと」、次回は「南北朝時代~戦国時代」です。14世紀末の南北朝の合一の後も「後南朝」がご存在であったという知られざる事実や、応仁の乱をきっかけに始まった戦国時代における朝廷の歴史などについて、いつもの黒田節でお伝えします。

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第74回黒田裕樹の歴史講座
「まつりごと ~天皇と政治の関わりの歴史3 南北朝時代~戦国時代」
主催:株式会社スペック・正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:令和元年9月29日(日) 午後2時より
会場:シアターSPEC(株式会社スペック)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
※会場は「太融寺」交差点角の太融寺の隣、茶色いレンガ模様の9階建てのビルの8階です。1階に大阪商工信用金庫があります。
資料代:金2,000円(高校生以下は無料、その他学生割引あり)
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,500円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
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もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と、自由民権運動が目指す「下からの改革」といった手法の違いは当然のように存在していました。
さらには、列強による植民地化を防ぎながら、あらゆる分野において近代化を進めなければならないという厳しい情勢の中において、政府主体の強い権限で何事も実行しなければならないという信念がありました。
それゆえに、急進的に近代化を進めようとする自由民権運動としばしば対立関係になったことから、反体制運動に対する政府の厳しい取り締まりも当然であったともいえるのです。
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しかし、西南の役(えき)が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して、国会を開設することを公約するなど、憲法制定や議会政治の実現に向けて着実に前進していることが分かります。
さらには、後に明治22(1889)年に大日本帝国憲法(=明治憲法)が発布され、翌明治23(1890)年には第一回の「帝国議会」が開催されているのですから、明治政府の計画力や実行力の高さには驚くばかりです。こうした事実からすれば、明治政府が「自由民権運動に押されて仕方なく憲法制定や議会政治を目指した」わけではなかったのは、明らかではないでしょうか。
またこの頃には、政府側からの府県会だけでなく、民権派から国会期成同盟が結成されるなど、議会政治の実現に不可欠な国民の力量も確実に上がっており、こうした流れがあったからこそ、明治23(1890)年の帝国議会の開催にこぎつけることができた、ともいえるのです。
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黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に、安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が新聞にすっぱ抜かれると、政府に対する非難の声が民間から一斉に挙がりました。これを「開拓使官有物払下げ事件」といいます。
事件に乗じて、民権派は藩閥政府への攻撃と国会開設の早期実現を声高(こわだか)に主張しましたが、政府は民権派によるこうした水際(みずぎわ)立った動きの裏には「何かがある」と察知しました。
やがて、民権派の背後に、急進的な議会政治の実現を目指していた大隈重信の策謀(さくぼう)があると判断した政府は、同年10月に大隈を罷免(ひめん)するとともに、民権派の動きを抑える意味も込めて「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」を発表し、約10年後の明治23(1890)年に国会を開設することを公約しました。
勅諭とは「天皇のお言葉」を意味しますから、後に引けない覚悟を示すとともに、天皇の権威で民権派を納得させようとする政府の姿勢がうかがえますね。なお、この年の政治に対する一連の動きは「明治十四年の政変」と呼ばれています。
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肥前(佐賀)藩出身で、参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などをめざしていました。
しかし、大隈の動きは、従来の漸進主義(ぜんしんしゅぎ、「漸進」とはじっくり時間をかけること)の立場を守り、議会政治の実現に時間をかけて取り組もうと考えていた、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)や参議の伊藤博文(いとうひろぶみ)らとは相反するものであり、やがて両派は政府内で激しく対立しました。
そんな中、たまたま政府内で発覚した一つの事件をきっかけとして、我が国は国会開設に向けて大きく前進することになったのです。
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翌明治11(1878)年には各地の民権派が大阪に集まって、活動を休止していた愛国社を再興すると、明治13(1880)年3月に行われた愛国社の第4回大会で「国会期成同盟」が結成され、運動目標の中心を国会の開設要求としました。
一方、自由民権運動の激化によって、国内の治安が乱れるのを恐れた政府は、同じ明治13(1880)年の4月に「集会条例」を制定して、民権派の動きを抑えようとしました。
なお、自由民権運動を支えたのは、人は生まれながらに人間としての権利(=自然権)を持っているとする「天賦(てんぷ)人権の思想」が主であり、西洋の思想家であるルソーが著(あらわ)した社会契約論を中江兆民(なかえちょうみん)が翻訳(ほんやく)のうえ「民約訳解(みんやくやくかい)」として刊行し、世間に広めました。
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また、西南の役などが終結して士族の反乱が落ち着いた明治11(1878)年に、地方自治制度の整備のため、政府は郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる「地方三新法」を制定しました。
これらによって、翌明治12(1879)年には府県会が全国で行われるなど、不完全ながらも地方政治が実現したことによって、自由民権運動は、都市から地方の農村にも広がるようになりました。
こうした事実に関して皆さんに確認したいのですが、もし自由民権運動を政府が一方的に取り締まるつもりならば、わざわざ地方政治を実現させて、彼らの勢いに火をつけることをするでしょうか。政府が府県会を開かせた理由は、将来の議会政治を実現できるだけの力量や民度を全国的に高めるため、と考えた方が自然ではないでしょうか。
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これらのうち、元老院や地方官会議には立法府の、大審院には司法府の性格を持たせており、これらは政体書(せいたいしょ)で示されていた「三権分立」の方針に基づいていました。
元老院では、前身となる左院の頃から始められていた、憲法案の調査研究を本格化させ、明治9(1876)年から憲法草案の起草に取りかかりました。元老院での草案は、明治13(1880)年に「日本国憲按(にほんこっけんあん)」として完成しましたが、欧米列強の各国の憲法の寄せ集め的な内容であったために、採用されず廃案となりました。
我が国初の憲法草案は残念ながら日の目を見ることがありませんでしたが、こうしたエピソードは、政府が議会政治の実現や憲法制定に対して積極的であったことを物語っていますね。
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政府内で孤立した大久保利通は事態を打開するため、翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくりと時間をかけながら、将来的には憲法に基づく議会政治を行うことで合意しました。これを「大阪会議」といいます。
なお、大阪会議において、当初は各自がバラバラだった意見を最終的にまとめ上げたのが、仲介役であった五代友厚(ごだいともあつ)であったと伝えられています。
大阪会議に基づき、同明治8(1875)年4月に、明治天皇の名において「漸次(ぜんじ、「次第に、だんだん」という意味)立憲政体樹立の詔(みことのり)」が出されました。詔、すなわち「天皇のお言葉」で発表するというあたりに、後戻りが許されないという政府の覚悟がうかがえますね。
なお、大阪会議の後に、板垣や木戸が参議として政府に復帰しましたが、板垣は同じ明治8(1875)年2月に、民権派の全国組織である「愛国社(あいこくしゃ)」を大阪で結成すると、10月に再び下野しました。木戸も病気を理由に翌明治9(1876)年に参議を辞職しています。
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