征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣代理となった岩倉によって、先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞職し、同じく征韓論を唱えていた板垣退助(いたがきたいすけ)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)・江藤新平(えとうしんぺい)・副島種臣(そえじまたねおみ)の参議の四人もそろって下野(げや)しました。
これらの外交問題は、明治6(1873)年に発生したので「明治六年の政変」と呼ばれています。かくして征韓論を回避した政府でしたが、朝鮮との国交も急がなければなりません。そんな折、我が国と朝鮮との間で一つの事件が発生しました。
明治8(1875)年、朝鮮の首都である漢城(かんじょう、現在のソウル)の北西に位置する江華島(こうかとう)付近で、我が国の軍艦の雲揚(うんよう)号が朝鮮から砲撃を受けたのです。朝鮮からの軍事行動に対して、我が国も報復として砲撃を行いましたが(これを「江華島事件」といいます)、これをきっかけに我が国が朝鮮に対して開国するように働きかけたことで、翌明治9(1876)年に日朝修好条規が結ばれました。
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