朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、チャイナの皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで、「日本が朝鮮を清国と同様に支配下に置こうとしている」と判断されてしまったのです。
もちろん、我が国にそんな意図はなく、明治新政府となって、我が国が天皇中心の新たな中央集権国家に生まれ変わったという意味で、形式的に「皇」や「勅」の字を使用したに過ぎませんでした。我が国は朝鮮に対して理解を求め、新たに「皇」や「勅」の字を使用しない外交文書を送るなど、懸命の努力を重ねましたが、態度を硬化させた朝鮮は首を縦に振りませんでした。
我が国と朝鮮とが国交断絶の状態となった一方で、我が国と清国との間では、明治4(1871)年に対等な条件の日清修好条規が結ばれていました。宗主国である清国が我が国と国交を結んでいるのに対して、属国である朝鮮が国交を結んでいないということは、裏を返せば「朝鮮は明治政府を承認していない」という意思表示でもありました。
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当時のロシアの主要な領土は、北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると、港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、ここで問題となったのが、朝鮮半島の存在でした。
もし朝鮮半島がロシアの支配を受けてしまえば、かつての元寇(げんこう)のように、我が国が直接ロシアの侵略を受けることは、火を見るより明らかでした。すなわち、朝鮮半島がどのような状況に置かれるかということが、我が国の防衛のカギを握っていたのです。
そこで、明治政府は当時の李氏(りし)朝鮮に近代化を進めるように働きかけました。朝鮮半島が開国して近代化し、確固たる独立国となったならば、朝鮮の人々のためになると同時に、我が国の安全度も増すと判断したからです。
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その後の使節団は、その目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも、内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。
そんな折、西郷隆盛(さいごうたかもり)を中心とする「留守政府」が、外交面を中心に大きな動き(詳細は後述します)を見せていたことを知った一行は、予定を変更して、明治6(1873)年9月に急いで帰国しました。
なお、岩倉使節団には多くの留学生が随行しており、その中には、後に女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立した、当時8歳の津田梅子(つだうめこ)の姿もありました。
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天皇と政治の関わりの歴史を語る「まつりごと」、次回は「鎌倉時代~南北朝時代」です。源頼朝が築きあげた鎌倉幕府は、なぜ源氏から北条氏へと権力が移ったのか。また、南北朝の2つの朝廷の誕生に秘められた真実などについて、いつもの黒田節で明確に迫ります。

(クリックで拡大されます)
第73回黒田裕樹の歴史講座
「まつりごと ~天皇と政治の関わりの歴史2 鎌倉時代~南北朝時代~」
主催:株式会社スペック・正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:令和元年7月28日(日) 午後2時より
場所:シアターSPEC(株式会社スペック)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金2,000円(高校生以下は無料、その他学生割引あり)
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,500円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
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そこで、明治4(1871)年旧暦11月に、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とし、大久保利通(おおくぼとしみち)や木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らを副使とする大使節団を欧米に派遣(はけん)しました。これを「岩倉使節団」といいます。
ところが、条約改正の交渉は、最初の訪問国アメリカで早くもつまずいてしまいました。外交使節が交渉を外国で行うためには、国家元首からの全権委任状が必要だったのですが、そのことを知らなかった岩倉使節団は持参していなかったのです。
アメリカからの指摘で自らの不備に初めて気づいた岩倉使節団は、やむなく大久保・伊藤の両副使を日本に一時的に帰国させ、全権委任状を取りに行かせました。日米間を無駄に一往復せざるを得なかった、両名の心中は如何(いか)ばかりだったでしょうか。
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例えば、旧来の風習が文明開化によって一新されたことで、我が国の歴史や伝統を軽視する風潮が見られるようになり、仏像や浮世絵などの貴重な芸術作品の多くが海外に流出するという結果をもたらしたのです。
また、西洋の思想が全面的に受けいれられたことによって、それまでの封建的な思想や習慣が否定され、地方を中心に伝統的な風習が廃(すた)れるという現象もありました。
一方、政府による急激な西洋化が国民の反発を招いたことで、我が国の伝統を損ねないようにしながら、西洋の技術を受けいれて発展させていくとする「和魂洋才(わこんようさい)」の精神が見られるようになりました。
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国民の生活に深くかかわった暦の変更は、多方面に様々な影響をもたらしました。すでに翌年の暦を販売していた業者が、出版のやり直しを強いられて大きな被害を受けた一方で、福沢諭吉が太陽暦の解説本を新たに発行して、ベストセラーになるということもありました。
それにしても、なぜ政府は年末になって急に改暦を発表したのでしょうか。その背景には、政府の深刻な財政事情がありました。当時の官吏の給与は月給制だったのですが、旧暦のままだと、翌明治6(1873)年は閏月(うるうづき)があるため、13か月分を支払わなければいけません。
しかし、新暦になれば閏月が廃止されるため、12か月の支払いで済むうえに、旧暦12月3日が新暦1月1日になることで、旧暦の12月がわずか2日間しかないため、給与を支払う必要がなくなります。つまり、合計2か月分の給与が浮く計算になるため、メリットが大きかったのです。
発表当初は大きな混乱があったものの、太陽暦がその後の我が国で定着するとともに、十五夜などの旧暦の風習も一部が残りました。なお、急な改暦で大損した暦の業者に対しては、政府がその後10年間の暦の独占販売を認めたそうです。
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始めは軍隊、後に官吏(かんり)や巡査が着用したことがきっかけで、洋服や靴の習慣が広まったほか、明治4(1871)年に政府が散髪令を出したことで、髷(まげ)を切った「ざんぎり頭」が増えました。「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という言葉が現代でも有名ですね。
その他としては、仏教で禁止されていた肉食の習慣が、牛鍋が人気となったことで広まったり、東京の銀座には煉瓦(れんが)造りの建物が並んだり、石油ランプやガス灯が使われたり、馬車や人力車が登場したりするなどの様々な変化が見られました。
また、明治5(1872)年には、それまでの「太陰(たいいん)太陽暦(=旧暦)」にかわって「太陽暦(=新暦)」が採用され、旧暦の明治5年12月3日が、新暦の明治6(1873)年1月1日となりました。この他、一日を24時間と定め、一週間を7日として日曜日を休日と定めたりしましたが、太陽暦への変更が余りにも急だったため、当時の我が国に大きな影響を与えたことを皆さんはご存知でしょうか。
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しかし、政府のこうした動きは、国民による仏教の否定にもつながり、全国各地で仏像が破壊されるなど「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の嵐が吹き荒れる騒ぎとなってしまいました。
その後、明治3(1870)年に明治天皇の名において「大教宣布(たいきょうせんぷ)の詔(みことのり、天皇の言葉を直接伝える文書のこと)」が出され、神道を国教と定める国家方針を示すとともに、明治6(1873)年には「紀元節」などの祝祭日を設けました。
なお、紀元節は日本書紀における神武(じんむ)天皇がご即位された日(1月1日)が旧暦であるため、現在の太陽暦(詳細は後述します)に修正して「2月11日」と定められました。現在では「建国記念の日」として国民の祝日となっています。
また、キリスト教については、政府は「五榜(ごぼう)の掲示」で禁教と定め、旧幕府の禁教政策を引き継ぎましたが、欧米列強の強い反発を受けて、明治6(1873)年に禁止が解かれたことで、我が国においてもキリスト教の布教活動が積極的に行われるようになりました。
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政府によるこうした「国民皆学」の精神は、経済的負担や子供の労働力が奪(うば)われることで、当初は農村を中心に学制反対の一揆(いっき)が起きたものの、江戸時代までに寺子屋が全国に普及していたこともあって、次第に定着していきました。
政府は専門教育にも力を入れ、旧幕府が設けた開成所(かいせいじょ)や医学所などを統合して、明治10(1877)年に東京大学を設立したほか、教員養成のための師範学校や、女子教育のための女学校あるいは女子師範学校がつくられました。
教育機関の充実は、民間においても行われました。幕末に福沢諭吉が設立した、蘭学塾を基礎とする慶應義塾(現在の慶應義塾大学)や、新島襄(にいじまじょう)の同志社英学校(現在の同志社大学)、大隈重信(おおくましげのぶ)が設立した東京専門学校(現在の早稲田大学)、大阪で創立されたフランス法系の関西法律学校(現在の関西大学)などの私学が次々と設立され、独自の学風で多くの人材を生み出しました。
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