しかし、時代が下って弥生文化の頃になると、墓の大きさに違いがみられるほか、周囲に溝をめぐらせた方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などが出現するようになりました、これは、弥生時代に本格化した水稲農業において、人々との共同作業を必要としたからなのです。
効率よく共同作業をやろうと思えば、一定のルール、すなわち秩序が必要であるとともに、水田の開発や灌漑(かんがい)あるいは治水(ちすい)など、共同作業が大規模になればなるほど秩序が重視され、集落の中でもっとも優秀な人間がリーダーとして作業をひっぱることになります。
また、農作業は天候に左右されやすいため、人々は太陽や月・雨・風・水などの自然に霊が宿ると信じ、それらに祈る祭祀(さいし)を重んじましたが、そんな中で「神々に祈る」ことを主とする人々も見られるようになりました。
このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古墳(こふん)につながっているのです。なお、我が国における大規模な古墳の出現については後述します。
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